使い回しの料亭 学校格差の解消をめざすのならば

 ケータイ雑感

榊原烋一 【サカスト】
2008年5月18日(日)寄稿

携帯電話お隣中国では悲惨な大災害が起こった。その国が好きとか嫌いとかを別として、戦争でもないのにたくさんの人間が死んで行くのを見ることは悲しい限りだ。犠牲になった方々には同じ地震国の一人として心からお悔やみを申し上げたい。

こんな報道を見ていてふと気付いたこと、それは携帯電話の普及とその功罪だ。このような災害時には携帯電話は遺憾なくその機能を発揮してくれる。災害直後からでもさまざまな現地情報が入ってくるのは携帯電話があるおかげだろう。電話線が切れていても、電力が供給不能になっていても、電池のある限り携帯は活動する。

一方今朝の新聞によれば、アフリカの貧しい人々の間にも携帯が普及して来たと言う、その地方の人びとは貧しいから一人が一台の電話を持つことはできない。そこへ共同で一台の携帯電話を持てば、プリペイド式のカードをそれに差し込んで、いつでもだれでも通信可能な携帯を発明した人がいて、これがバカ受けしたそうだ。人間頭は使うものとつくずく感心せざるを得ない。

この携帯のおかげで現地の貧しい農民や漁民は、これまで搾取者であった仲買人の手を通さないで直接消費者と値段の交渉が出来るようになったため、一躍収入が増加したと言うからこれも携帯のおかげというわけだ。

サカスト筆者もこれまで携帯電話は持っていたがメールをしようとは思わなかった。なぜならパソコンのキーボードならば左右10本の指を使って文字が送れるのに、なんで一本指で面倒くさいことを、と考えていたせいもある。

ところが半年ほど前、電話機を買い換えた機会にひとつメールでも、とやり方を憶えたらやはりこれは便利だ、と思うようになった。何が便利かと言えば、電話であれば相手の都合を考えて、こんな時間にはかけないほうが、とか、今食事中だろうかなど自分が気を使わなければならないが、携帯メールならおかまいなし。文中にご都合のよいときにお返事ください、と書いておけばいつメールしてもかまわない。

パソコンメールではうっかりすると相手が開いてくれなければそれまで、という場合もあるが、携帯メールはたいていの人がまず1日に1回くらいは開いてくれるから、特別に至急の用事でなければまことに便利だ。やはり使って良かったと感じた次第。

このへんは携帯の大きな功績だが、日本の若者の携帯依存となると話は別だ。この場合には携帯と書くよりもケータイと書かないと感じが出てこないので、これからはそう使用することをお許しいただいて。

私自身ケータイメールなるものに躊躇していたのは、現在の日本の若者たちのケータイの使い方にもあったからだ。彼等は電車に乗ればメールをうつ、町を歩けばメールをうつ、おしまいには自転車に乗りながらもメールをうつ。いったい、こいつらにそんなに忙しい仕事があるのかよ、と思わせるようにやたらにメールをしている。

一昔前、携帯電話が肩掛けの鞄くらいの大きさがあったころ、電車の中で得意顔でこれを使ってしゃべっていたサラリーマンを見かけた。本人はこんな高価な機械使ってるんだぞと見せびらかしているつもりだったのかも知れないが、周りの人間は、電車の中まで仕事に追いかけられている哀れな人間というまなざしで見ていたものだ。

実際、その後も地下鉄の中では通話できない時代もあって、さぼっている営業マンが上司からおまえ何処にいたのだなど叱責されると、いやその時間には地下鉄でした、などの言い訳が通用したこともほんの少し前のことだ。つまり人間が機械に追い回されるようになってきたのだ。

こんな経過をたどってみると、現代の若者のケータイ文化はかなり異常なものだ。機械を通してだけしか人間関係ができない、そのあげくいつもだれかとメールしていなければ自分の居場所が作れない。そしてそんな状況の中からメールによる犯罪ヘと結びついて来たから問題が広がった。ついに政府が小、中学生にはケータイを持たせるのを禁止しよう、あるいは通話機能と現在地通報機能にしぼった機器を開発させよう、などの論が起こって来た。

こういう考え方ってどこかがおかしい。いかにも日本らしい管理主義的発想でもある。機械はあくまでも機械でしかないのであって、使う人間がおかしいということがなおざりにされてしまうところがまことに日本的なのだ。私のケータイにも1日に2〜3本の迷惑メールが入る。どういうわけか最近のこの手のものは英文でくるものが多い。けれどもこんなものはすぐに消去すればそれでおしまい。開いて読んで返事して、そのあげく詐欺にかかりましたなんて泣き言を言う前に、世の中危険が一杯なんだということを自覚することが先ではないのか。

ここまで書いてひとつ思いだした。この【サカスト】の原点とも言うべき【岸コラ】の最初の頃、どこかの大学生がスーパーフリーなるグループを作って女の子を誘い、酒を飲ませて暴行したという事件があったことを。あのとき私は【サカスト】で、見知らぬ男の中へのこのこ入っていって酒まで飲む女が悪い、そういう人間を「飛んで火に入る夏の虫という」と書いたはずだ。

最近のケータイ犯罪もまったく同様だ。真夜中に出会い系サイトで見たこともない男に誘い出されて監禁され、未だに行方不明の女の子がいる。またこれはおそらく知り合いに呼び出されたのだろうが、これも深夜男友達に会って殺された女がいる。こんなことはだれが考えたってその女の子、およびその子の家庭がおかしいに決まっているじゃないか。

マスコミは死者にむち打つことが嫌いだし、うっかり本音を書くと訴えられるかもしれないから最後はケータイの問題にしてしまう。しかしいくら機械を取り締まったって使う人間のアホさ加減を治療しなければいたちごっこになるのは当然だ。そしてまた、それを取締まる特殊法人なんかが出来て、役人の天下り先がごっそり増える、結果減るのは庶民の年金ばかりという繰り返しだ。

官僚や政治家が家庭のことに口を出して来ることが一番恐ろしいことだ、しかしそうせざるを得ない現実が起こっていることも事実なのだ。そういう世の中を作り出してしまったのは、実は私たちの世代だったのか、と内心忸怩たる思いがないでもないが、ケータイの乱用が人間の教育の中のどこが欠けていたからかを興味深く説いている本を最後に紹介して罪滅ぼしとしたい。

*正高信男著「ケータイを持ったサル」〜人間らしさの崩壊〜(中公新書・2003年9月刊)

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