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榊原烋一 【サカスト】 |
やっと私と思いを同じくする文章にめぐりあった。それは日経新聞の9月18日付夕刊のコラム「あすへの話題」欄に投稿された作家柴田翔氏の「排除でなく支援を」と題する昨今の教育問題に関する文章である。
柴田氏と言えばドイツ文学者としてよりも芥川賞作家としての受賞作品「されどわれらが日々――」で有名になられた方であるが、日本語に関しての一家言もお持ちの方で今季のこのコラムの常連の投稿者をされている。内容は中教審や教育再生会議のメンバーの発想が根本において誤っていることを指摘した文である。以下に原文を引用しながらその内容を御紹介してみることにする。(「 」内は原文引用部分)
「中央教育審議会の答申に沿って小学校・中学校などの教員免許更新制が始まるという。十年毎の再試験に受からないと免許は失効で、免職となるらしい。 どんな試験を、どんな専門家が作成し、どう実施するのか、また試験に備えての研修の有無、在り方など、具体的な話しはまだこれからのようだが、ただでさえ授業以外のことで忙しい先生たちが更に忙しくなって、子どもたちの顔を見る時間が今以上に少なくなるのではないか、心配になる。」
柴田氏は教育現場の現状をよく御存じのようである。どこかの知事のように教師の苦労も見ずして子どもの表面からだけ判断して、教師がだらしない、国歌を歌え、研修をさせろ、などとお門違いの迷発言ばかり出す人間とは一味も二味も違う。そう、教師とはまず授業を教えることがその主たる仕事であって、親の文句や、政治屋たちのもめごとの解説、あるいは給食費未納者の追跡などを主たる仕事とするものではないのだ。
「こういう話で気になるのは、各界著名人が集まる中教審や教育再生会議の発想の根本に、教師たちは怠けていて怪しからんという強い不信感が感じられることである。」
まことにおっしゃる通りで、文部科学省とか内閣府にいる政治屋ないしはお役人たちはこれらのメンバーの人選に当たっては、自分たちの主張を代弁するか、あるいは補強してくれると思われる人間だけを選ぶのだから、結局はメンバーを選ぶ側の発想が教師不信病に侵されているだけで、その原因の大半が実は自分たち自身の生きざまから来ているとは露ほども想像出来ないやからなのだ。
「教育再生会議はこの春〈子育ての常識〉の案を論じて、例えば赤ちゃんを抱きしめ瞳をのぞき込み、子守唄を歌おうと説いた。まことに正しい見解ではあるが、しかしその〈子育ての常識〉の中には、親が信用せぬ子どもは真っ直ぐに育たないという項目はないのだろうか。」
柴田氏はこう述べているが、それよりも何よりも、高い給料貰って日本の教育の再生の方針を検討しようという会議の委員が、子守唄の歌い方までお考え頂くには及ばないので、だいたい国が各個人の子育ての在り方にくちばしを突っ込む先進国など見たことない。会議では国際的に劣っていると常に認められている日本の高等教育の在り方とか、大学入試の抜本的改革などを議論してもらいたいので、婦人雑誌の付録にでもなりそうな子育て論などで時間つぶしをされていてはまさに税金のムダ使いというもの。
「わが子に優れた教師をと願うことは当然だ。だが不適格教員の排除制度は今でもあり、必要ならその適用を強化すれば済む。免許更新制はいくら美しい説明をしても、再試験を受けさせられる側からすれば、自分たち全員を潜在的な不適格教員候補者として、不信の目で見る制度だと見える。」
この辺が現代の日本の持つもっとも危険な部分で、“人間すべて平等”などのかけ声だけは未だに建て前として掲げておきながら、勝者は敗者をいかように料理しようが自分の勝手という社会の現実があることを、国民すべてが分かりきっているからこそ、最近格差社会の問題が大きく取り上げられているのだ。中教審や教育再生会議のメンバーは、自分たちは勝ち組に入っているとの妄想に取り付かれているだけだから、柴田氏のような発想は逆立ちしても出て来ないのだろう。
「制度の具体化の際にはぜひ〈排除〉ではなく、先生たちへの〈支援〉を根幹に据えてほしい。たとえば過去十年現場で教育に専念した人たちが、その十年間の仕事を振り返り、自ら再検討してみるための〈ゆとり〉を得るような再研修制度。そうでなければ免許更新制は教育を更に荒廃させるばかりで、再生に役立つことはないだろう。」
役人も政治屋も国のトップに立っていると自負する者は、常に柴田氏のような発想ができるための再研修制度をまず作り、それをご自身でお受けになった方がよろしいのでは。
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