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榊原烋一 【サカスト】 |
本を読むのが好きな私だが、最近はもっぱら新書ばかりを買ってくる。値段の安いことももちろんその理由だが、持って歩くのに重くない、セカンドバッグていどの鞄にも入ってしまう、寝転んで読んでも手が疲れない、等々の理由もあるからだ。世の中には私のような理由の他に、知っているようで知らない知識が手軽に得られるという理由もあってか書店に行くと今まで聞いたこともないような出版社が新書を出している。
最近2冊の新書を読んだが内容はかなり違う視点からのものであるにもかかわらず、妙に共通点を感じさせられた。1冊は「日本語はなぜ美しいのか」(黒川伊保子著・集英社新書・07年1月刊)、他の1冊は「現代日本文明論〜神を呑み込んだカミガミの物語〜」(上野景文著・RBA新書・06年8月刊)である。
日本語について書かれた前者の著者は理系の方で、コンピューターメーカーでAI(人工知能)の研究をされた方だから、いわゆる国語学者の日本語論とは視点がまったく違っていて、内容の一部は独断的とも思えるが発想の新しさが光っている点で興味があった。例えば日本語はすべての音に母音がつくという極めて特殊な言葉ということは誰もが知っていることだろうが(本書によればそういう種類の言語は日本語以外ではポリネシア系語だけだそうだ。たとえばハワイ現地語として有名なアロハ オエのように。)そんなことを述べているだけでない。
著者が最終的に言おうとしていることは、最近の日本の親たちが幼児の頃から子どもに英語を習わせていることを危険だということだ。両親が家庭で日本語で話している環境の中で、子どもだけに英語を、しかもネイティブの先生から習うことは、言葉の語感と日本人のもつの意識とが大きくずれるために世界の何処の人間でもない異邦人を育て上げてしまうことになると警告している。言語とはその国の自然や風土と深くかかわりあっているのだから、まず母語のもつ情感を納得できる年齢までは外国語を教えるべきではないと訴えている。
さて著者のねらいは別として、理系の発想と思われたものの一つに次のようなくだりがあった。その一部を引用してみよう。(同書p.116)
「最近になって脳科学のいくつかの研究成果から、脳は、地球の自転と公転を感知しているということが指摘されている。自転を感知しているということは、東に向いたときの意識と、西に向いたときの意識が違うということに他ならない。乗り物で、進行方向に向って座るのと、進行方向に背を向けて座るのでは、気分がかなり違うのを自覚している人は多いと思う。東を向くということは、自転の進行方向に顔を向けている。西を向くということは、その逆である。」として東を向くと意識が活性化し、西を向くと意識が沈静化するというのだ。だから大都市が西に発達して広がって行く、なぜならば西に住むと毎朝東へ向って移動するから意識が活性化し、西に向って移動するから沈静して我が家へ戻れるという。
チベット高原から発したインド・ヨーロッパ語はそこから西へ西へと移動し、イギリス更にアメリカまで到達する。ユーラシア大陸の西に位置するヨーロッパが世界の文化,教養を牽引したのも都市の西への発達と同様だなどの説はやはり理系の発想だ。
さて、もう1冊の書は一神教社会の国々と、世界でも数少ない多神教というよりアニミズムの日本社会との比較論的な本である。著者は東大から外務省、そしてケンブリッジ大卒の外交官でグアテマラ大使などを経て現在は国際研修協力機構(JITCO)という機関で常務理事をされている。
この中で著者は一神教的社会とはとにかく絶対的価値を尊重し、例えば「国家の存続」が絶対的な価値、絶対的優先事項になるとその他の事項はすべてこの価値の前には二次的、三次的として「切り捨て」てしまう傾向があるという。「クロかシロ」かの判別が厳しくグレーゾーンの選択はない。その例としてフランス革命後のブルボン王朝への対応とかロシア革命のあとのロマノフ王朝への対応のように王朝関係者がすべて処刑されてしまう。つまり革命とか王朝の交代とは事柄の性格上もっとも厳しい取り扱いを受ける。現在の中国なども宗教国家ではないが極めて一神教的世界であるとしている。
これに対して多神教的アニミズム社会の日本ではその辺が極めてあいまいで、処刑されたA級戦犯まで靖国に祀ってしまうが、これを中国人の思考から言えば「A級戦犯(東条)」→「敗退した(否定された)王朝」→「台湾」という発想となって、台湾問題も靖国問題も中国側から見れば王朝交代に関する問題として一神教的発想では「クロ」と断じる事件だという。だから小泉さんがいくら戦死者を悼むと言っても理解できない。
この本では、日本はあるときは中国文化を輸入し、あるときは西欧文明を自分のものとして生き残ってきたのに、戦時中の一時だけ一神教社会の様相を帯びたために大失敗を起こしたのだと説く。現在憲法改正論者の多くは占領中にアメリカに押し付けられたというが、明治憲法ですらヨーロッパ諸国のそれにならって作られたもので別に日本古来からのものではなく、いわんや現憲法のもとでも多神教的あいまいさの中で生きて来た所にこそ現在日本の繁栄がある、すなわち「折り合い」をうまくつけることに日本の特徴があるというのだ。
この二冊の論旨の目的はまったく違っているが、共通点は日本文化とは世界の中でも非常に珍しい特異な文化で、これを大切に生かすことが極めて重要ではあるが、他国に強要してもまず受け入れられない文化でもあるということを意味している点で偶然に共通している。
奇しくも日経新聞1月23日付け夕刊のコラムには国際日本文化研究センター教授白幡洋三郎氏がこんな文を書いておられた。氏は最近台湾に建設された新幹線と日本のそれとを比較して、なんといっても日本の新幹線は開業以来42年、列車の事故による死傷者ゼロ、列車1本当たりの平均遅延時間は例年1分以内という驚異的記録を保持しているが、これは几帳面とも言われる日本人のメンタリティを象徴したような鉄道だ、と賞賛しながら、その文の最後はこう結んでいる。
「新幹線は日本の『文化』であり、日本の『美』意識を技術的に凝縮したものと言っていいだろう。ただその『文化』や『美』はどこにでも移植できるわけでもないし、しなければならないものでもないと思う。むしろ日本はかなり変わった国だと自覚するのが良いかもしれない。」と。
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