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榊原烋一 【サカスト】 |
安倍新総理が初めて特別国会での所信表明演説をおこなった。もともと彼の声は官房長官時代から感じていたが一般の日本人に比べて周波数が高い。しかも比較的早口であるから長い話をされると私には喧しく感じられる。
ただしこれはあくまでも私の個人としての受け取り方だから、このことについて文句を言おうとしているのではない。ただ、内容としても余り格調の高いものではなかった。つまり自分の言葉で自分の考えを述べているという感じは極めて薄かった。しかもほとんど聞き手の方を見ずに手元の原稿を読み上げているだけだからなおさら迫力がない。
野党の連中からは、役人の書いた原稿の棒読みだとの批判も出ている。もっとも政権政党の首相演説に対して野党がほめることは日本の憲政の歴史の中ではまず皆無だったはずだから野党がこの演説をけなすことは不思議でないけれども、今度ばかりはその通りと言わざるを得ないほど内容がない。
前総理のように自分の与党までぶちこわすというような自己主張をせよと言うわけではないが、あまり総花式の演説からはかえって実行不能の抽象論の羅列とすら感じさせられる。それと安倍氏は衆目の一致するように自民党内でも右寄りの保守派とみなされているくせに、この所信表明ではやたらにカタカナが耳についた。
日本語にするとかえってニュアンスが伝わりにくくなる外来語も現代では少なくはないが、この演説の中で使われている言葉は無理にカタカナを使わなくても、と思わせるものが多かった。再チャレンジ支援策、イノベーション25、テレワーク人口、アジアゲートウエイ構想、新健康フロンティア戦略、ライブトーク官邸、子育てフレンドリー社会、カントリーアイデンティティなどのいずれもが日本語としては消化されていない新語の感がある。
逆に言えば彼のスローガンである「美しい国、日本」と同様に極めてあいまいな言葉を叫ぶことで本心をぼやかしていることがむしろ危険な徴候を示すものとさえ感じさせられる。かれが演説の最後に引用したアインシュタインが訪日した際のことば「日本人が本来持っていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい。」これと、自分自身の不消化なカタカナ多用の演説とはどういう相関があるのかを説明してほしいものだ。
靖国の問題をあえて持ち出さなかったことも裏を感じさせられる。間もなく実行するだろう訪中、訪韓のおりにも相手からこの問題を出させないようあえて自らは述べないのだろうが、これも今後の問題として気にかかる。小泉前総理は最後まで自説を曲げず頑張って来たが、これによって日本の外交にかなりのマイナスがあったのも事実だ。それも単に中国、韓国との間の問題ばかりでなく欧米諸国にすら総理の靖国参拝否定の声が上がってしまった。もちろん直接に利害関係のあるはずのない欧米諸国ではあっても、アジアの大国である日本と中国の関係が悪化することは好ましいものではないことが当然で、しかもその論調の大半が靖国への総理の参拝は中止すべきだとの方向に固まっている。
【サカスト】筆者は外国がどういうかで靖国参拝反対を唱えているのではない。何回も繰り返すように日本人が自分たちの手でこの問題を解決すべきだと主張しているだけだ。なぜならば私たちは敗戦という高価な代償をはらって平和を勝ち得たのだから、靖国本来の目的である「戦死者の勲功を讃える」神社の存在は必要ないと考えるからである。
小泉氏はよく「国を守って戦い、自分の命まで捧げた戦死者を追悼することの何処が悪いのか」との論理で参拝反対論に対してきたが、これこそ歴史認識の違いというもので、明治時代に靖国神社が別格官幣社となった折の祭文の内容を熟読すれば、そこには「天皇が内外の野蛮な敵を懲らしめ,反抗するものを服従させたときに、お前たちは忠誠心で家を忘れ、生命を投げうって名誉の戦死をとげた。その高い勲功があればこそこの皇国を統治できたのだという天皇の思し召しで、永遠に祀る」とあるようにこの神社の意義はあくまでも戦死者の勲功を讃えるもので、哀悼するものではない。
しかもそこに祀られる際に本人の意思はまったく無視され、国家が勝手に祀るのだから宗教的に考えても問題が多すぎる。小泉氏はこれに対しても思想、信条の自由は小泉個人のものと強弁していた。総理を辞めた現在の小泉氏はこれからは大手を振って靖国参拝をしてもかまわない。
いずれにせよ、私たち戦争体験者の実感として自分の国が侵略されるとき以外には絶対に戦争はするなと叫び続ける。むしろ、侵略という最悪の事態がおきる前に、外交努力によって戦渦を極力避けるべきという理想を持ち続ける。そのために日本は自ら戦争は起こさない国であるという確たる姿勢を新総理は内外にはっきりと宣言すべきである。
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