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榊原烋一 【サカスト】 |
自民党総裁選びも間近くなった。このところ各候補がいろいろな見解を発表しているが、最近になって教育改革を口にする候補が目立つようになって来た。
教育問題というものはどんな素人でも一言ある問題だし、おまけに最近の世間を騒がせる事件がなにやら教育絡みとも思えるものが多いから、この改革を訴えれば大方の賛成を得られるはずとばかりに勝手な熱を吹かれては困る。
だいたい教育が良かったか悪かったかなんて問題は今起きている現象で単純に説明は出来ないものなんだ。その何よりの証拠として、我々世代の受けて来た教育はまさに戦前のものだったけれど私たちの仲間にはそんな教育を受けて来た姿なんて何処にも見受けられない。軍関係の士官学校とか、兵学校のような幹部養成コースに進んだ者も少なくなかったが、その連中だって満州事変以後の軍部独走が日本を壊滅に導いたという見方を否定しない。
私たちより2〜3年くらい後輩になると、かれらは中学校時代から勤労動員で軍需工場にかり出され、授業もろくすっぽ受けていない世代になる。この連中のうちの一人だって学力が低くて使い物にならないなんて言われている者なんかいない。教育とか学力とかは人間一生かかって最終的には自分自身で育て上げねばならないものなのだろう。
教師の責任論も騒がれるが、昔の教師にくらべれば今の教師なんて仏様みたいにまじめだ。満足な子育てもできないくせに揚げ足ばかりとる親にまで我慢強く対応しているなんて芸当は私たち世代にはおよそ考えられないこと。
だからすべていいということではないが、教育の問題とはかなりの部分がそのときの社会のあり方ににかかわっているのだから、誰が悪かったかとなればその大本を握っていた為政者が悪かったのだというのが結論かもしれない。そして民主主義国家である日本の現状から考えればそんな政治家を選んでしまった国民全部の責任かもしれない。
戦後から今日にいたる歴史の中で、教育に大きく影響を与えたものは前半部分では日教組の力があったのは事実だろう。そしてその背後にあったのが公務員を組織した官公労、そしてその連合体としての総評があったこともたしかだ。これらが勢力をもっていた時代には「昔陸軍、今総評」と言われたくらい自分勝手な論理のゴリ押しがまかり通ったし、それがいい意味でも悪い意味でも教育の世界にも影響していたことは否定できない。
しかし戦後の歴史も後半になるとこれらの勢力は社民党のちょう落を見れば分るように急激に落ち込んでしまった。現在日教組の組織率は約20%程度だと言われている。つまり100人の先生がいても、組合に加入しているのは20人くらいしかいないということだ。日教組の影響が今になって悪いものとして現れているのだとしたらば、あと30年ほどしたらそんな影響はまったくなくなるとでも言えるのだろうか。
たしかに最近の教育問題を語るときに見逃せないのはその元締めである中央官庁の文部科学省の影響だろう。例の学校5日制は学校教育にかなりの問題を生じさせている。ゆとり教育と称して学習内容は縮小したのだから5日で大丈夫だと彼らは今でも涼しい顔をしているが、知的な理解というものはだれでも同じ時間を与えれば同様に能力がつくというものではなかろう。30分で理解する子もいれば2時間かけなければ理解できない子もいるのだ。
となれば内容を減らしたって反復の機会まで減らしてしまえば出現するのは落ちこぼれと呼ばれる子供たちだ。とりわけ初等教育の段階で見捨てられてしまった子供たちは自分の居場所は反抗によって作り出すしかない。これも最近の少年問題で目立っている事実だ。
もちろん教師の中にもいい加減な教師がいないとはいえない。最悪なのが子供を好きでもないのに間違って教師になってしまった人間のいることだ。私は現場にいた頃、子供は犬と同じだと言って怪訝な顔をされたことがある。子供を犬扱いすると勘違いされたからだ。そういう意味ではなく、前に書いたような気もするが、犬という動物は自分を好きな人間か嫌いな人間かを実に敏感に嗅ぎ分ける。犬好きな人間がそばに近付けば、初めて出会う人間にでもすぐになついてくる。ところが犬嫌いの人間が恐る恐る近寄ればたちまち吠えかかられるから、ますますその人の犬嫌いは強くなる。
実は子供が大人に対してもつ嗅覚の鋭さが犬の場合に非常によく似ているということだ。いくら叱られてもこの人は私たち子供が好きなんだと思える教師にはすりよってくるが、反対に子供を好かない教師がいくらお世辞を言ってもかれらは従おうとはしない。残念ながらそんな状況下でも子供は教師を選べないのだから、こんな教師に教わらねばならない子供こそもっとも不幸な立ち場に置かれているはず。だから管理者は子供の顔色から教師適格者と不適格者とを敏感に発見して適切に処置する必要がある。
特に義務教育段階の子供、それも幼ければ幼い子供を受け持つ教師にこそこの適格性が問われるのだから、単に研修を義務付けたって駄目なものはあくまで駄目なので、まず入り口である採用時に極力そういう人間が教師にならないような手段を用意することこそが上級官庁の重大な使命であるはずだ。
また、特に都市部で流行りだした学区の自由化にも問題がある。現在の小中学校は学区制が一応あって、居住地の学校へ行くように義務付けられている。ところがこれを自由化して保護者と子供とが学校を自由に選択できるようにするという動きが流行りだしているのだ。おえらい方々の発想は、ぬるま湯に浸かっている公立学校の教員に競争原理を働かせて叱咤激励しようという原始的な発想らしい。
昔から公立学校にも越境問題はあった。しかしこれには制度があって、あくまでもその学区に住んでいるという証明がなければ不可能であったからだれでも自由に出来た訳ではなくごく少数の子供に留まっていた。これに対して現在の方式は同じ区、市に住んでいれば何処の区立、市立の学校へ行くのも自由にするというものなのだ。子供がたくさん集まる学校と敬遠される学校とが明瞭に分かるようになるから学校同士、教師同士が競い合うだろうということらしい。これを拡げて考えれば何も同じ区内、市内だけでなく都民税を払っていれば都内どこでも入っていい訳になるし、国税を払っていれば日本中何処の学校を選んでもいいことになろう。
これは一見結構な案のようにも見えるがここにも大きな問題が存在している。一つは今の社会の極端な自己中心主義、コミュニケーション嫌いの傾向を一層助長させる結果になること、そしてもう一つはたとえ電車代、バス代をはらってもいい学校を選択できる経済格差を生み出す原因を公教育自体が認めてしまうことなどがある。貧乏人の子はいつまでもいい加減な教師の多い学校で我慢しろということにもなりかねない暴挙だ。やはり子供を中心とした近隣の付き合いや、金持ちの子も貧しい子も机を並べて学ぶことから生まれる社会性、連帯性を育てることが公教育のもつ大切な役割ではないのか。
教育の問題の根は深い。学力低下の問題一つをみても、そこにある大きな原因として現代の子供の意欲のなさが浮かび上がって来る。学ぶ意欲だけではなく遊ぶ意欲すらもない、したがって耐性もないからすぐにキレる。これらの現象は、余りにも経済優先でその側から見れば満ち足りてしまった日本の社会がもたらした大きなひずみとも言えよう。このような社会を生み出したことは人間の幸福追及の一面とすれば喜ぶべき現象なのだろうが、その裏でこれに伴う精神性や倫理性の育成を怠って来たつけが大きく出始めて来ているのだ。そしてその責任の大半は、金銭面だけで人間の幸福を考えて来た大人の身勝手さにあるという認識を鋭く持っている人間でなければ、教育改革などの言葉を軽々しく使って欲しくない。
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