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榊原烋一 【サカスト】 |
主筆は時々忘れた頃にひとの領域を侵してくるからうっかり出来ない。こちらも彼の領域を侵そうと思うのだが、金融はかつて郵便局の定額貯金が6%くらいの利回りになったことしか分らず、ゴルフに至ってはコースに出たのは小学生の頃に川奈ホテルでまねごとをやったのと、伊豆大島に仕事で行ったときの2回だけだから、これではとても太刀打ちできっこない。そこでおじいさんの仇を打つべく孫の一人は高校からオーストラリアのゴルフ学校へ行き、現在は20歳過ぎてロスでゴルフの勉強をさせられている始末だ。
さてベートーベンについて論争を挑もうという訳ではないが、たしかにヨーロッパ音楽を日本人が聞きはじめてまだ200年足らずなのに、日本人の西洋音楽に対する感受性はすごいものだ。このことについては別に言いたいこともあるのだが、ある意味でヨーロッパ文化が人類すべてに共感を持たせる普遍性とでもいうべきものを持っていたのかもしれないし、これも明治以後の日本の教育のせいだったのか、この辺もまだ解決できない疑問だ。
さて【岸コラ】のベートーベン、ああいう書き方は大好きなんだ、つまりそのときヨーロッパはどんな時代だったのか、とか中国はそのとき何をしていたかという比較文化として芸術を考えることはとても興味深いことだと思う。
その点で同じ芸術でも美術と音楽とでは全く違う要素がある。美術は絵画にせよ彫刻にせよはたまた建築にせよ、空間的な芸術だから偶然地面を掘ってみたら驚くべき発見があるかもしれない。ところが音楽は時間的芸術だから、そのとき、だれが、どんな音楽を演奏し、それはどのような音であったのかは全く分らない。すべての学説はわずかな文献考証とすばらしい想像の世界から生み出されたものでしかないのだ。どんな偉い学者であっても生の音を聞いたことなくして語らねばならない。逆を言えばいくら突飛な説を述べてもこれまたまったくのウソとも言えない、これが音楽史の世界なのだ。
ただしはっきりしたウソもある。それは日本におけるクラシック音楽の定義だ。現在の日本ではクラシック音楽とはポピュラー音楽に対しての用い方になっている。しかも、クラシック音楽は高級でポピュラー音楽は低級だという暗黙の了解までその裏に隠しながら。実は日本でいうクラシック音楽とは和製外国語なのだ。
本当のヨーロッパ音楽の歴史でクラシック音楽と呼ぶのは、ハイドンに始まってモーツアルト、ベートーベン、場合によってシューベルトも含む作曲家を中心とする18世紀から19世紀初期までの音楽だけを指しているのだ。つまりそのちょっと前のバロックと、ちょっと後のロマン派の音楽の間に挟まれた少しだけの期間の音楽を指している。
元来classicという言葉の語源はラテン語のclasssisからきたと言われて、これはその昔地中海を中心とする交易船が同じ船団である目印につけた旗のことを称したようだ。そこから派生してそれをあやつる上流階級や富豪をさし、更に同質の集団、同質の階級を現わすclassなる言葉が生まれる。現在ではthe first classとかthe lower classのように列車や船、航空機の等級、社会階層、はたまた学校の成績順にまでこれが使われるようになった。
文芸、美術などの世界ではclassicと言えばギリシャ、ローマの古代まで含むいわゆる古典派の総称を意味しているが音楽の場合は上に述べたような主としてウィーンを中心として活躍した18〜19世紀の音楽に限られる。したがって日本で呼ばれるようなポピュラーに対するクラシックという使われ方は誤りなのだ。
ではなぜこの時代の音楽だけをクラシック(古典派)音楽と呼ぶのか。それはハイドンによって完成されたソナタ形式という音楽形式による作品が中心となった作曲家という点で共通するからだ。ハイドンは交響曲の父と呼ばれ、作ったシンフォニーは100を超えるし、続くモーツアルトは41、ベートーベンは通説では9曲ある。その他にこれらの作曲家の主要な作品である様々な独奏楽器と管弦楽のための協奏曲、あるいは弦楽4重奏曲やピアノ3重奏曲などの室内楽、そしてピアノ独奏曲やバイオリン独奏曲としてのソナタなどのいずれもがこのソナタ形式という楽曲の形式によって作られたという共通項があるからなのだ。
もちろん続くロマン派の作曲家達にもソナタ形式によって作られた作品も少なくはないが、一方で形式にとらわれない自由なしかも個性的な作品群が多くなった次の世代の作曲家と区別するためにクラシック音楽という時代区分がしてある訳だ。
最近出版された本に「クラシック音楽の政治学」(2005.4.07青弓社刊・渡辺裕他編)という本があるが、その中に音楽の都ウィーンとして観光地としても有名なこの地を有名たらしめたのはナチスドイツだったのだと言う説が書かれている。1938年オーストリアを併合したナチスドイツは、しきりにオーストリアのゲルマン化をはかった。たまたま独ソ戦争が勃発した1941年、この年がモーツァルト没後150年に当たることを知ってウィーン最大のランドマーク、シュテファン教会のすぐ裏に「フィガロハウス」を作り、そのオープンによってモーツアルトを「ドイツ文化」の英雄に仕立て、併合の正当化の宣伝に使ったというのだ。現在新年に開催されて有名になっているニューイヤーコンサートも現在のような形になった第1回目は1939年だというから、音楽も当然政治によってかなり動かされていたのだ、とそんな視点で考えることも興味深いだろう。
ベートーベンが鉛中毒で死んだということはどうやら定説のようだ。ポーランド人ショパンがウィーンに2度寄っているのに結局パリに行ってしまうのは、当時のウインナワルツという下品な音楽の流行に我慢できなかったと言う話もある。
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