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榊原烋一 【サカスト】 |
ほんとうに悲しい事件がまたも起きてしまった。マンションの15階から9歳の坊やが落とされて殺されたということだ。被害者の坊やは昨年の12月に転校して来たということだから、このご家族は新しい住居に移ったことが結果的に子供を失う悲しみにに変わってしまったのだから、第三者である私にさえもその痛みがひしひしと伝わってくる。
殺された子供は生き返って来ないけれど、ともかく犯人が自首して出て来た。いまのところ容疑者だから何とも言えないけれども、自ら出頭したということは、警察がマスコミに流した防犯カメラの映像の威力だったことに間違いなかろう。
このように不条理な犯罪を犯す人間は、おおかた精神的に問題がある独身の若者だろうと私は予想していた。ところが、出頭して来た容疑者は41歳で家庭があり、しかも子供も3人、長男は高校生だと言う。マスコミの発表の範囲内で考えれば、防犯カメラに写された自分を見てこれは逃れられないと思ったらしい。
私の知り得た情報もマスコミからのものに過ぎないのだが、犯罪現場の建物は住民相互のプライバシーを侵さないような作りになっていることが売りだと言う。そのためにエレベーターもそれぞれ停まる階が別々になっていて、被害者の坊やは3階おきにしか止まらないエレベーターに乗って15階まで行きそこから自宅のある14階に階段を使って降りようとして被害に会ってしまったらしい。
容疑者が怪しからぬことは当然ながら、現在日本の都市生活とはこんなところまできてしまったのかと暗然たる思いがする。つまり、プライバシーを尊重するあまり集合住宅でさえ隣人とできるだけ接触しないような設計が歓迎され、その中で密室状態での犯罪が起きてしまう。このことを都市型社会の当然の姿として放置しておいてよいのだろうか。
3〜40年も昔、私が新規採用教員の面接官の仕事をしていて次のような信じられない話を地方出身の受験者から聞かされた。その若い女性は東京都の採用試験で1次合格となり、ほぼ確実と考えたのか都内に下宿を探したそうだ。予算内で部屋も見つかりいざ契約となったとき管理人から、ここに住むことになったならばお隣さんに挨拶はしないようにと言われたという。びっくりしてその理由を尋ねると、皆さんが煩わしく思うからだと。その女性は東京ってそんな所かと恐ろしくなって面接官である私に逆に質問して来たのだ。もちろん私はそんなことはないから心配しないで、と慰めておいたが、その後彼女はどうしたかは不明である。
私のように祖父母の代から東京に住んでいる者にとっては東京が故郷であり田舎なのだ。そこでは当然隣近所へのおつきあいは欠かせない。私は長男だったから正月になると向こう三軒両隣りにはきちんとお年賀の挨拶に行かされた。子供のときには何か恥ずかしくて気の進まない仕事ではあったが、おかげでご近所との付き合い方の初歩を覚えさせられたと思っている。余談だが東京の山の手ではお年玉の習慣はなかったのか、挨拶に行っても何ももらった記憶もない。
都会という所は隣に住んでいても職業は皆別々だから、地域そろって一斉にやることと言えば、神社の祭礼のときに商家でなくても祭礼の堤灯は掲げるくらいだったが、近所となりが何をしている人であるかは当然の如く知っていたし、道で会えば挨拶をするのが常識だ。
都市型社会が隣は何をする人ぞ的状態になったのは、一説によれば戦後高度成長期に出現した集団就職以後のことだと言われる。高校卒業生はおろか中学校卒業の子供たちまでもが金の卵ともてはやされて東京へ出てくる。経済の成長が早すぎて猛烈な労働者不足が起こったからだ。
かれらの大方は農村出身者だ。農村とは村全体の人々が同じ時期に同じ仕事をしなければならない宿命的関係にある。したがってその中には厳しい付き合いの掟が作られる。そこでは隣どころではなく村中の住民の挙動がある意味では監視されていると言ってもよい状況がある。そこから外れればいわゆる村八分扱いとされてしまう。
そのような状況の中にいた若い少年少女が都会で働く。たしかに仕事は楽ではなかっただろうし、賃金も大したことはなかっただろうが、精神的には掟のない社会での自由さがあったはずだ。これを公認された家出状態と社会心理学者は名付けている、隣人の存在には全く無関心で、同時代のしかも同業の人間とだけの付き合いしか知らず、だから仕事から解放されれば誰からも監視されない生活、そんな中で青春を送った大量の人間が今日の都市型生活と言われる社会の母体となったと言うのだ。
そんな社会で犯罪が起こってもだれも関心の持ちようがない、と同時に犯罪の防止も出来ない。最近日本人の体感治安が著しく悪化しているのはそのせいだとも言われる、実際には犯罪発生件数は別段増加はしていないらしいが、ひとつには想像も付かないような悪質な犯罪がマスコミで大きく報道されること、更には暴力団などへの締め付けが厳しくなったためにその連中が自分たちは表面に出ず素人を手先に使った犯罪が増えたこと、そして最後が一番大きな理由で、隣人への無関心、無干渉による人間関係の希薄さのために個々の人々に漫然とした不安感が増大したのだと思われる。
今回の犯罪で比較的短時間のうちに容疑者が逮捕された最大の理由は、テレビに公開された防犯カメラの映像を見た容疑者が逃れられないと思ったため自ら警察に出頭して来たことによる。しかし、皮肉なことに、テレビ各社が容疑者の近隣に住んでいた住民に聞いて回ると、その殆どが余り印象がないと言う。それならばもし本人が警察に出頭しなければ、警察が周囲の聞き込みに当たってもこんなに早くは逮捕できなかったかもしれない。
もう一つの皮肉さは、これほどプライバシーに敏感で、同じマンション(これは一般名詞になってしまったから仕方なく使うだけで、日本には高層アパートメントハウスはいくらでもあるが、マンションなどと呼べる建築物は一つもない)の中でさえ隣人と出来るだけ顔が会わないことを期待して入居した住民が、防犯カメラという全く人権無視の監視機械によって安全をゆだねようとする、私に言わせれば倒錯した価値観にある。
1903年生まれのイギリス人ジョージ・オーウェルが1949年に書いて有名になった「1984年」と称する小説でかれはスターリン治下にあった当時の全体主義国家ソ連を風刺した監視国家の恐ろしさを描いたが、かれが想像もしていなかった民主主義、平和主義国家を標榜する日本という国が、姿を変えた監視国家にならざるをえない滑稽さは想像も出来なかっただろう。
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