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榊原烋一 【サカスト】 |
最近の日本のニュースを見たり聞いたりしていると人間不信に陥りそうだ。いつも肩肘はって固いことばかりしゃべっていないで、たまには懐かしき子供時代を振り返ってみたい。
振り返ってと言うと、皆さん戦前の軍国主義教育を思い出すかもしれないけれども、あんなのはごく一時期、実は今よりも自由だったと思われる経験が私には一杯ある。その中で今日は小学校時代の思い出を。
私が通っていたのは私立の小学校で現在も存在している国立学園小学校という学校だ。こくりつではなくクニタチにあるからくにたち学園と呼ぶ。創立は大正15年だから私が生まれた年、来年創立80周年を迎える。この年に同じ国立に現在の国立音大も創立された。私の父親が音大の創立にかかわったため、子どもも近所に出来た私立小学校に入学させたというわけ。
敷地は約5,000坪強、その中に本館と二棟の平屋の校舎が建っている。本館には講堂兼音楽室、校長室、職員室、図書室、理科室と1年生の学級など、そして平屋の一棟には2年生、3年生の2クラス、もう一棟には4年生から6年生までの3クラスの教室があり本館とはコンクリートのたたきに屋根だけある渡り廊下でつながっていた。校庭は桜と松の木が一杯ある一部芝生の表校庭と、運動場と雑木林とが半々の裏校庭があった。
各学年一クラスずつ、私のクラスは男12人、女4人の計16人、全校生徒が100人になったことはなかった。担任は学年請負とも言うべき全て1年から6年まで一人の教師が持ち上がる。音楽、体育は1年生から専科教員が受け持っていた。
始業時間と終業時間は学校全体一緒だったが、各教科の終始時間はすべて担任に任されている。朝、登校して遊んでいると、小使いさん(校内に住宅を与えられた住み込みの方だった)が焼き芋やさんの持つような鐘を手に持ってカランカランと鳴らしながら回ってくる。これが朝礼の合図だ。
さて授業が始まる。たとえば1時間目が国語だったとしよう。珍しく子どもたちが授業にのってくる、するとこの時間は60分でも80分でも続く、そして子どもがくたびれた頃お休みになる。各学年こんな具合だから休み時間には時間がぶつかった他の学年と一緒に遊ぶ。やがて担任の先生が窓から首を出して「何年生おはじまりー」と大声で叫ぶ、するとその学年が教室に戻る、こんな具合だ。まさに子どもの興味のままに授業は動いていた。
一週に一度直接観察の時間、略してチョッカンの時間というのがある。後に結婚して分ったのだが私の死んだ家内は立教女学院だったのだが、そこでもチョッカンの時間があったそうだ。どうやら大正自由主義教育の名残りだったような気がする。お天気のいい日には子どもの足で30分ほどかかる多摩川まで。そこでカエルや小魚を捕まえたり、川石を積んで支流を作ったり、たまには蛇を捕まえたり、そして先生がその間適当に植物の名前などを教えてくれた。
一番楽しかったのがお昼休み、これも学年ごとに時間がバラバラだから、お天気が良いと裏の雑木林へお弁当を持って行って仲良しと一緒に食べる。当時、おうちごっこというのがはやって、雑木林の中に落葉を敷いてまわりを萩の枝で垣根を作り、その中に4〜5人が座ってお互いの弁当のおかずを分けて食べるのだ。菓子パンを持って来た子はあんぱんを4等分して友達にわける。(ちなみに当時菓子パンはほとんどが一個5銭だった)そうして御飯の子からおかずを分けてもらう。
学校から駅までの道の両側は20分ほどあったがその間家は数軒しかなくほとんどが雑木林だ。だから道草のし放題。そして国立駅で上り組と下り組とに分かれる。電車もガラガラの2輛編成だから運転手さんと顔見知りになって、当時だって規則違反だったのだろうが運転席に入れてもらったりしたこともある。
悲しかったことは自宅の駅で一人ずつさよならをすると、あとは家までひとりぼっちになってしまい、家の近所には友達がいなくなってしまうことだ。だから家に帰ると本を読むしかすることはない。それだけに学校の楽しさが忘れられないのかもしれない。
ここまで書いてきて、おや、このこと前にも書いたことがあったのでは、と考えた。調べれば分るのだけれども、ここまで書いて思い出したのではもう遅い。年寄りの回顧趣味だと我慢していただいて、【岸コラ】主筆のご判断に任せよう。
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