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榊原烋一 【サカスト】 |
昔から日本の諺にも「人を見たら泥棒と思え」というのがあった。しかし本来的に日本人はどうも性善説にかたむきがちだ。
ところが今大問題となっている耐震強度偽造問題、これはなんたって最も悪質な詐欺的行為だ。今日の各新聞では国が財政支援にも乗り出す模様だと伝えている。国土交通省もはじめはあくまで買った人間と売った人間との民間同士のトラブルだ、と突き放していたが問題の大きさに慌てて、行政側の責任もありとして財政支援の可能性を匂わせはじめた。
所管官庁がしぶしぶではあるが財政支援を打ち出せば、いずれは地方自治体も税金を使ってこの後始末に乗り出さざるを得ない。どっちみち役人は自分の懐が痛むわけではないから、こりゃ行政の責任もあったかも、と認めていくらか金出してうやむやにしてしまう魂胆がすけすけだ。
もちろんこれは民対民の問題ではもはや解決がつかないことは当然だが、そうかと言ってそんなに簡単に税金を使うことに同意したくはないというのが正直な感想だ。だいたい何時の場合でも同様だが、そもそもの責任がどこにあったのか、それがあいまいなままに無駄な税金が使われて行く、つまり官僚の不作為が常に問題の裏側に存在していることを私たちは誰に訴えればいいのだろうか。
この問題もどうやら規制緩和の流行の中で起こったもののようだ。もちろん小泉さんよりももっと前、1900年代の末のことだ。当時までは建築確認はそれぞれの地方自治体に建築主事とかいう役人がいて、かなり厳しいチェックが行われていた。ところが当時からはやりだした規制緩和の波で、この仕事を民間の株式会社に委託出来ることにしてしまった。
民間で出来るものは民間で、という理念はそんなに間違ったものではない。だが、役人があっさりと民間に引き渡してしまう事業とは、どうも抱え込んでいても旨味が少ないものばかりなのではなかろうか。事実、民間の営利事業にこの検査を委託した後は、次第に検査がいい加減なものになってくる、それを知った関係業者がそこに付け込んで悪事をはたらく、の図式が出来てきたのだ。
今回はじめて知ったことだが、建築確認を民間会社に委託する法律改正が行われる際,日弁連は猛烈な反対をして会長名で国交省に申し入れをしたのだが、聞く耳を持ってはもらえなかったというのだ。弁護士の側では、本来建築のように人間の生命の安全に深くかかわる事業、そして日用品を購入するのとはまったく異なる高額な買い物の正当性を確認すること、これこそ国民の生命財産の保全にかかわるものとして行政が責任を負うべきものであるとの見解によるものという。
行政が最も重要な責任を放棄すれば利益優先の人間だけがはびこり、その結果として今回のように個人では絶対に解決不可能な問題へと発展してしまうのだ。そして依然として既得権確保しか頭にない役人どもは一身の安泰と利益確保のために譲らないものは誰がなんといおうがへりくつを付けて手放さない。
仏教ではすべての人間、とりわけ子どもはほとけの子と見ている。子どもだけではなく一切衆生にもほとけの可能性が宿っていると考えるらしい。だから子どものその可能性を育てることが教育だと考える。キリスト教でも全く反対とは言えないが、一方で旧約の時代から「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる」(箴言第13章)と教えているし、聖パウロの言葉にも「神はあなたがたを、子として扱っておられるのである。およそ父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練があなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなた方はほんとうの子ではない」と言っている。それだからこそまた、人間の間には愛こそ必要だという教えにも重みが出てくるような気がする。
性善説は美しい、しかし厳しさのない教育の中から現在の日本人の心のいい加減さが蔓延しているとするならば、性悪説を信じたくもなろうというものだ。
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