P.T.S.D.の経験

榊原烋一 【サカスト】
2005年5月30日(月)寄稿

世界的にも未曾有の鉄道事故となったJR西日本の大事故からはや1月以上が過ぎ去ってしまった。そのすぐ後でフランスに旅行した私は、フランスでもしばらくの間トップニュースで扱われていたと聞かされた。

最終的に原因はカーブでスピードを出し過ぎていたこと、これは最初に私がこの欄で予想したのとほぼ同じ結論であった。しかし、なぜ遠心力で倒れてしまうほどのスピードを出したかという点については、運転士死亡の現在想像以外には結論が出せない。

さてそこで、亡くなった方々のご家族はもちろん、負傷でまだ入院生活を送っている方々、そして現場で救助に当たっていた方々の中にも、肉体的だけでない精神的なダメージを負っている方が多いと聞く。

この頃はやりのPTSD,つまり心的外傷後ストレス障害というやつだ。この恐さは私自身の経験からもよく分かる、前にこのコラムに掲載したノックアウト強盗の後もそうだったのだが、私自身、鉄道事故に直面した経験をお話ししよう。

時は1946年、つまり敗戦翌年のことだ。当時私は音楽大学の学生、たまたま何の用事があったのかは忘れてしまったが、旧制中学校時代の友人の家に向かうときである。その友人は永福町に住んでいて私は吉祥寺だから、当然現在の京王電鉄井の頭線に乗って行った。

現在では5輛編成のスティール車両のきれいな電車だが、その頃は永福町車庫が空襲で焼かれ、残った車両をやりくりして、たった2輛連結の緑色の電車が細々と動いていた。昔から鉄道好きの私、まるでガラガラの2輛目の連結器部分に立って連結器の辺りをなんとなく眺めていた。これも今と異なり、当時の電車は各車両は貫通しておらず1輛ずつ別々になっていて、私は2輛目の最前部で窓越しに連結器を眺めていたのだ。

東京ではまずお目にかかれないが当時の連結器とは今のような密着式ではなく、ちょうど握手をするときの手の握り方によく似た自動連結器というものだった。吉祥寺駅の構造は今でも昔と全く同じで渋谷方面から来る電車が終着駅なので二つのホームに交互に到着する。

たまたま私の乗った電車は右側路線に到着、したがって出発するとすぐに渡り線という左側車線に入るための分岐点にさしかかる。このポイントを過ぎるとすぐに井の頭街道を跨ぐ跨線橋に差し掛かる。上下線の間に当然のことだが鉄の橋桁がある。

駅を出てものの30秒もしない時だ、私の眺めていた1輛目と2輛目の間の連結器が普段見なれない奇妙な形にねじれていった。その直後、私は意識を失ってしまった。気が付くと、私は電車のベンチに横たわっていた、体の片側は泥まみれ。鉄道の人が体を揺すりながら、お客さん、大丈夫ですかと叫んでいる。MPの腕章を巻いた米軍兵士も心配そうな顔で眺めている。

こんな事態になると人間不思議に大丈夫ですと答えてしまうものだ。事故の原因はポイントの切り替えミスだった。上下線を跨ぐX字状のレールの上を1輛目は無事通過、2輛目の前の台車も通過、そこでポイントが切り替わってしまった、つまり私の乗っていた2輛目は上下線にまたがったまま車体を斜にしながら進行し、そこでまん中にあった橋桁に電車の横腹が衝突したのであった。

出発まぎわ、しかも上下線を渡るときだからおそらくスピードはせいぜい20キロていどのはず。大丈夫と虚勢をはって家に帰ったが翌日から凄い熱、そして額がはれて割れるほどの痛み。後で考えたが、こんなことなら大丈夫なんて言わずに病院へ運んでもらっておけばせめて治療費くらいはもらえたのかも。

こんな事故でもそれからというもの電車に乗るのが本当に恐かった、まして電車がちょっとでも揺れたりすれば、顔から血が引くのが分かるほど。それがほぼ半年くらいも続いた。

発熱しただけ、軽い怪我だっただけ、それでもこの有り様だ。しかもまだ20歳そこそこの自分自身の経験から考えれば、福知山線での当事者の精神的不安のすさまじさが共感できる。

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