のんびり過ごした数日はあっという間に終わり、いよいよ運命の8月15日になる。その日の朝、村にひとつの知らせが駆け巡った。理由は分からないが今日の正午、重大放送があるから各家庭では仕事を休んで放送を聞くように、とのこと。当時の日本人は村から連絡があれば文句を言わずにその通りにする。
みんなでラジオを取り囲んだ。だいたい山の中だから普段でもラジオの受信状態がよくない。この日のラジオは取り分け聞き取りにくかった。天皇が話をされていることだけは最初のアナウンスで分かったが、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。途中でソ連という言葉が聞こえただけで、放送は終わった。直後の友人との感想は、このうえソ連とも戦争を始めるとはこりゃたまらないな、であった。
やがて夕方になると、どこからともなく真実が伝わって来た。戦争に負けたのだ、この報が伝わると平和だった村にいきなり騒ぎが起こってしまった。アメリカが来たらどうなる、男は奴隷にされる、女は暴行される。戦争中平和だった村が敗戦とともに流言の渦に巻き込まれてしまった。友人には2〜3歳年上の姉さんがいた。この人すこぶるの美人で、戦後新東宝映画のニューフェイスに合格、女優さんになったが、顔がきれいなだけでは女優として成功できず、ついに音大の先輩と結婚、若くして亡くなってしまったが。それだけにご両親は取り分け心配のようだった。
あくまでも脳天気な友人と私だけが、そんなことある訳がない、とせせら笑っていたが、私たちの心配は、戦争が終わったのなら今度はどうやって東京へ戻るか、の一事だけになった。敗戦直後から、緊急以外の旅行はいっさい停止、乗車券は売らないと言うのだ。
また二人で計略を立てた。清里駅に向かい、駅長に頼んでみた。私たち二人は音楽学校の生徒です、学校から連絡があり、あさって放送に出演が決定したからできれば帰ってこいと言うのですが。
この計画は予想以上にうまく当たり、それではすぐ許可の降りるように連絡します、と数時間後に東京行きの切符を手配してくれた。今も昔も日本人のマスコミ信奉は変わらないが、当時はJOAKだけが唯一の公共放送だったのだからなおさらだ。
帰り支度をしながらふと友人が言った、敗戦で気の立っている軍人がいるかもしれない、変な格好で列車に乗ると、こんなだらしない奴らがいたから戦争に負けたんだと斬り付けられると困る、その通りだと思って、行きには遊び支度だったのが、戦争が終わったとたんにゲートルまで巻いた戦闘服姿で帰るという珍現象が起きてしまった。
こんないい加減な我々だったが、矢張り戦争中の教育は生きていた。東京へ帰るとすぐ、とにかく天皇陛下に謝りに行こうということになり、夕闇の迫る頃二重橋へと向かった。そこここに頭を垂れる人あり、砂利の上にひれ伏すものありだったが、帰ろうとする我々の横の松林の芝生の中で円陣を作って座っている学生達がいた。見ると中心に中年の将校が立って叫んでいる、「日本軍人の最期を見ろ」、抜き放った軍刀を自分ののどに突き立てている、二人は恐くなって一目散に逃げ帰って来た。
敗戦後数日経ったので、それまでは灯火管制と言って空襲に備え、夜間屋内の光が洩れないように電球を黒く塗って下方だけにしか光が射さないようにしたり、深い笠をかぶせたり、窓ガラスに黒い布や紙を貼ったりしていた。もう戦争も終わったんだから明るくしようとこの日全部はぎ取って夜を迎えた。するといきなり警防団のおじさんがやって来て「勝手に灯火管制を破ってはいかん」とわめく。なんだこの石頭めとしゃくにさわったがその数日後、灯火管制は中止との命令が出た。
ざまみろと思うと同時に、何でも命令がなければ動かないのが日本人なのだ、とここでも強く思い知らされた。この後は照明こそ明るくなったものの、今度は電力不足、停電につぐ停電の連続が戦後の記憶の一つとして生々しい。後で知ったがB29は富士山を目標にして飛んできたそうで、どんなに明かりを消したって富士山は夜中にもはっきり見えていた訳だ、これも戦争中のばかばかしかった思い出の一こまである。
私にとっての敗戦記は、このように中途半端な人間の生き残りの記ともなってしまうのである。読者の皆さん、深くお詫びいたします。
2004年8月17日(火)寄稿
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【サカスト】関連寄稿:「ヒロシマ・ナガサキ」(2005年8月5日寄稿)
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