敗戦59年目の記念日が来てしまった。戦争中に亡くなった方々には心から追悼の気持ちをささげたい。
さて、今だから8月は学校夏休みと考えている人もあるだろうから念のため解説しておくが、既に東京では小学生は(当時は国民学校と呼んでいた、これもドイツかぶれの日本政府が行った愚行)学童疎開、中学生以上大学生までの全員は勤労動員でどこかの工場で働かされていた。したがって夏休みなどはない。
私の通っていた音楽学校は後で考えるとまことに恵まれていたことになる。それは当時の私立音楽学校は大学令にもとづく大学なんてものではない。国立の上野にある東京音楽学校(現東京芸大)だけがかろうじて専門学校、他の私立音大、美大はすべて現在で言う各種学校扱いだった。この制度はむしろ当然で、当時は芸術関係の学校を目指した人は何も資格とか卒業証書が欲しくて入学する訳ではないのだから。
おかげで音楽学校ではまず、軍事教練がなかった。つまり配属将校をおく価値なしという扱いだ。次に勤労動員だが、これは当時の学校経営者のすぐれた手腕だったと思うが、学校内に工場を作った。外へ出て作業をするのではなく、学校内で工場から搬入した飛行機の点火栓に使われる絶縁体、(当時は雲母を蛇の目型に打ち抜いたものを使っていた)これの選別作業を教室でやったのだ。
仕事の主人公はもっぱら女子学生、男子学生は親工場から材料を運んだり製品を納入する下働きが主だった。そのおかげで、授業も作業の合間に自由に出来たし、もっとよかったのは「音楽挺身隊」なる組織を作って立川にある軍需工場や軍隊に出前慰問をして音楽を聞かせ、当時民間ではお目にかかれなくなった砂糖やカルピス、たまにはビールなどがもらえたことだ。
しかも行った先では若い女の子がたくさん来たと大歓迎される。学内に男子、女子寮もあって地方の学生はそこで寄宿生活をしていたが、昭和20年になると女子学生の大部分はは東京は危険だと休学して郷里に帰ってしまっていた。
一度、機銃掃射を受けたことがある。軍需施設と間違えられたのか、グラマン戦闘機が3機学校を襲って来た、いきなりバリバリと大音響で窓の外に敵機が超低空でやってきた。私は恐怖と言うよりはむしろ呆然とそれを眺めていたが、廊下に出てみると女子学生が廊下にうつ伏せに張り付いて、中にはすすり泣くものもいた。幸いに一発の弾丸も当たらなかったことも強運の一つかもしれない。
こんな訳で信州への疎開の旅は個人的に学校へ欠席届けを出してのものだったのだ。
八王子から一番列車に乗り、与瀬(相模湖)駅を通過するとやっと気持ちが落ち着いた、もう検札が来ても心配ない。となると男二人の楽しい遠足のような気分だ。もともと空襲のない田舎に向かうのだから、服装も遊び支度、窓から見える野山は全く平和そのものだ。
列車が甲府に到着すると、そこも焼け野原。しかしこれも東京で見飽きているからなんの感慨も湧かない。小淵沢で小海線の汽車ぽっぽに乗った頃はすっかり浮かれた気分だ。
清里に着いた。今でこそ駅前には若い女の子の好きそうな苺色のレストランなど下らない盛り場が出来てしまったが、当時は全くの田舎、彼の家族の疎開先に着いても戦争なんてどこでやってるの?と言う感じ。食べ物もそこそこ不自由はないし、友人はバイオリン専門だからその練習をしたり、私もピアノはないので和声の勉強をしたり、退屈すると河原に風呂の燃料になりそうな薪を拾いに行くか、出はじめたじゃがいもを掘りに行くかしか仕事らしい仕事をせずにぶらぶらの毎日だ。
友人いわく、彼が家族と疎開してきた当座地元の人からは「東京から来たズクナシ(方言で役立たずとのこと)」と陰口を叩かれていたそうだが、今度は「東京からズクナシがもう一匹やってきた」と言われていると、友人の家族にこぼされるほどのだらしない生活だった。
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