敗戦の年の4月、私に徴兵検査の通知があった。この年から徴兵年齢は19歳に引き下げられたからだ。検査は本籍のある小石川区の区役所の講堂だった。
小石川区はその後本郷区と合併して現在の文京区となったが、当時の区役所は春日通りの現在小石川4丁目という信号のある辺りにあった。当時、理科系の大学生には卒業までの徴兵延期が認められていたが文系にはそれがない。まして音楽学校生などは非国民扱いさえされかねない状況だったから、まず、いかにして兵隊に行かずに済むかが私にとっての最大の関心事だった。また、運悪く兵隊になった場合どうすれば軍楽隊員になれるか、それも考えなければならない。しかし東京が爆撃される世の中になってしまった頃には、どうせいつか死ぬのだ、とのあきらめにも似た思いが若者の間に色濃く漂っていたので、私自身のそんな心配事すら忘れ去ってしまった。
検査の通知は検査当日の1週間ほど前に来た。まず慌てたのは、検査場で煙草を吸っていることが見つかる、という恐れだ。友人からもそんな話を聞かされる。毎日せっせと歯を磨いた。次に醤油を飲んで走ると心臓の動悸が早くなって検査に通らないという噂も聞いて、毎日醤油を飲んで駆け足をしてみた。後になってみればどれも無駄な努力だった。
検査当日、私の隣には子供の頃に法事で会って以来の従兄弟がいた。同じ榊原の姓で本籍が同じだったからだ。(彼は兵隊になったが生き残った)会場に入って驚いたことには、灰皿がいくつか置いてあったことだ。兵隊が大声で、煙草を吸う奴はここで吸え、と叫んでいる。当時だって19歳は未成年者なのだから喫煙は法律違反。それを堂々と許可している、つまり戦況はそこまで若者を必要とする状況になってしまっているということだ。心配の一つはこれで消えた。徴兵検査のときには、パンツなど履いて行ってはいけない、必ずふんどし着用と指定されている。身体測定の時まではふんどし一丁だが、内診になるとそれも外される、衆人環視の中で全裸で性器から肛門まで調べられる。兵隊は万年合宿生活なんだからこれも仕方ないとは言え、四つん這いにさせられて尻の穴まで調べられるのはかなり屈辱的だ。
終わって担当の白衣を着用した軍医らしき人間がひとこと、ずいぶん痩せてるな、なにか持病でもあるのか。はい、小児喘息があります。うーん、喘息はまずいな。私の頭上に一脈の光が輝いた。
講堂のステージの上に検査会場長として恰幅のよい陸軍大佐殿が鎮座している。その前に一人一人が直立不動の姿勢で立ち、直前に渡された検査結果を申告する。私の前が従兄弟、彼は大声で、甲種合格と叫ぶ。大佐殿は満足げに頷く。
さて私だ、もらった検査結果はなんと丙種。当時はよほど体が弱くても兵隊が欲しいので、甲種の下の乙種を3段階に分け、第一乙、第二乙、第三乙、そしてその下が丙種だ。ここまでが一応合格で、その下の丁種とは、手足がないなど今で言う肢体不自由な人で、これはもちろん不合格、したがって丙種とは最下位当選だ。内心の喜びを悟られてはまずい、と大佐殿の前でうつむいて小声で、丙種合格、と唱えた。とたんにその大佐殿が声をかけてくれた、体が弱くともお国に尽くす道はいくらでもある、元気を出せ。
会場を外にすると、大佐殿の言ったとおり猛烈に元気が出て来た。もし戦争があと半年続いていたら、もしアメリカ兵が本土上陸をしていたら、恐らくこんな虚弱兵士に持たせる銃などなく、地雷をもって敵の戦車の下へでも突っ込まされていたのでは。人間の運命などは本当に分からないものだ。
帰り道に通った神田駅から眺めると、隅田川から東京湾まで見通せてしまうほど下町は焼野原になってしまった東京があった。
寄り道をしてしまったが、続きは信州清里の巻に移る。
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