新年雑感

 新しい年、だれもが今年一年、一家の無事と新しい年への期待を胸にする大切な日。

 これは人間が考えだしたすばらしい知恵だ。だれもが思うように、物理的には昨日が今日になっただけ、そこに何の変わりもない日常の移り変わりがあるだけだ。それなのに世界中のほとんどの人間が、新しい年に当たって、喜び、期待し、または絶望してこれを迎えている。 (もっともこれは西暦を用いている国家、民族だけかもしれないが。) 特に日本のように、春夏秋冬と、容赦なく人間に新しい次を予感させる季節の変化があればなおさらだろう。

 現在先進国と言われる国々の多くはこのような環境で育てられたからこそ、先進国と呼ばれる形での文明を作り上げたのかもしれない。反対に考えれば、毎日が夏、働かなくても木の実が自然に熟してくれる環境ならば、違った文明、違った文化があるはず。これは、毎日が冬しかない民族でも同様かもしれない。それもまた文化だ。 

 その環境の厳しさの中から、今、私たちが普通に享受している文明や文化が作られているとするなら、ある意味では不幸な文明、文化を作ってしまっているのかもしれない。自然から受けられない恵みを、知恵によって生み出そうとする、その知恵を武力という力に変えてさえも生み出そうとしてしまったからだ。小学生の頃のガキ大将ならば、すべてが体力だけで済んだ。ところが何時しか年齢が上がるにしたがって勉強の成績がとってかわってしまう。知恵あるもの、これが体力をも凌駕していく、たとえそれが悪知恵であってさえも。そしてそのような知恵をもった人間は、体力だけで頑張っている人々を手先に使って自身の幸福を追い求めている。

 日本は戦後初めて、戦闘が続いている地域へ自衛隊を出動させる決定を行った。賛成の人々は「普通の国」になったと喜んでいる。ひととき日本の首相は「トランジスタのセールスマン」と言われたことがある。日本の知識人たちはこれを日本に対する侮辱の言葉ととらえたようだ。しかしそれ以前に、既に世界のある国の首相たちの中には「石油のセールスマン」もあり、そして「武器のセールスマン」さえあったのだ。そういう国が「普通の国」であり、その仲間にでもなろうとするのか。

 1月1日 日本の首相は靖国参拝を行った。首相個人には靖国に対する強い思いがあるかもしれない。個人として何を崇拝しようがかまわないが、総理大臣は日本国民の総意を代表していることをまったく忘却しているとしか思えない。首相は国を守ってくれた人々(これを戦争中には英霊と呼んだ)に敬意を表することは当然と答える。

 しかし、本当に死んだ兵士たちは、国のために喜んで死んで行ったのだろうか。残念ながら私たちの年輩のもの、あの戦争で生き残ったものの証言では、必ずしもそんなものではない。一枚のはがきで徴兵され、机の上の無謀な作戦にかり出され、家族も家業からも強制的に引き離され、むだに死んで行った仲間がいくらでもいたことを知っている人間がまだ生きているのだ。

 日本の神社とは必ずしも崇敬のためだけのものでないことを知っているのだろうか。讒言によって左遷され悶々として死んだ菅原道真の霊が都に住む左遷に加担した人に取り付いたり、季節外れの悪天候がおきたため、道真の死んだ太宰府と、彼を追い出した京都に天満宮を建立したことは、日本歴史を学んだものなら誰も知っている。

 となると、たくさんの戦争で犠牲にならざるを得なかった兵士達の怨霊を慰めるのが靖国の仕事であり、総理はそこに行って為政者の最高責任者として謝罪の参拝をするのだろうか。それなら無差別大量爆撃の下で何の罪もなく殺された一般国民の怨霊はどこで慰められているのだろうか。

 戦った兵士達の慰霊をすることはよい。しかしそれは少なくとも日本人以外の人々からの共感を得る形にすべきなのだ。少なくとも首相の最大の親友、ブッシュが訪日したときも、国の行事として参拝を要請できる形のものにしてから、お二人で堂々と参拝されればよいのではないだろうか。

2004年1月2日寄稿