岸田コラムでまた触発された。Sept.11のTVでNYの人が、いい生き方をしたいと言ったという。ある意味では彼等の心のどこかにキリスト教の影響があったか、いや宗教はどの宗教でも同じか。人間はいつか死ぬ事を知っている、いながらも、明日死ぬとはだれも想像していない。だから目の前で死ぬ事もあると気付いたそのときだけ、瞬間だけどいい生き方をしたいと考える、その積み重ねがひょっとすると宗教の根源かもしれない。さてそこで、終わり良ければすべてよし、の諺は本来はそういうことだったのでは。葬式の席で、ほんとうに好い人だったのにと会衆がささやいている場合と、本音では死んでくれて助かったとささやいている場面もあるんだから。
私は教師という仕事の中で生活指導なぞに首を突っ込んでいたから今でも考える。荒れに荒れた子に親身になって世話をしてその心をやわらげた先生は、みんなすばらしいと賞賛する。けれど荒れる前にその子の心を見抜いて問題を起こさせなかった教師がいれば、その教師はだれからも賞賛されることがない、該当したたった一人の子以外には。
昨日タイアの会社が大火災、会社としては大損害だろう。近隣の住民に大きな被害がなかったのがせめてもの慰め。不思議なのはタイアの専門家なら野積みしている古タイアだって自然発火して消火で手こずることがあるのは常識。火災は仕方ないとしても、なぜ消火装置が働かないのか、まして自衛消防隊はどうなっているのか、東京からまで消防自動車が出動しなければならない事態も、これは想像外の出来事だとして、結果として申し訳ない、ですませるのか。
そんな意味をこめて終わり良ければすべてよしのことわざを考えてほしいんだ。