“支那”という言葉の由来

青森明の星短期大学 助教授 藤巻啓森先生から

 “支那”という言葉の語源については、今日においても諸説紛紛である。印度支那という言葉から来たという説もあれば、印度語の“支那”は智慧という意味で、中国人は智慧に富んでいると言われるところから来たとの説もある。最も有力な説は、大昔、秦の始皇帝の威勢と名声がインドまで伝わったが、インド人は“秦”という発音の“Chin”の後に母音の“a”を付けて言っていた。それがヨーロッパに伝わったというものである。それ以後、ヨーロッパの諸言語では中国のことを“China”或いは“Chine”と呼んだ。インド人が中国人に対して、この呼び方を使ったところ、当時インドで仏経の修行をしていた唐代の僧侶たちは、喜んでその呼称を受け入れた。すぐに僧侶たちはその言葉を大唐(中国)に持ち帰り、同時に“China”を“支那”という漢字に訳し、仏経に載せた。ほかにも“脂那”や“至那”という漢字も使われた。仏経の印刷物の中にはインド語の音訳で“震旦”、“振旦”というものもある。

古代日本は中国のことを“唐土”(モロコシ)、または“唐”(カラ)等と呼んでいたが、“支那”はまったく使われていなかった。それでは、何時この言葉が日本に伝わってきたのだろうか。漢学者実藤恵秀の著作の記載によると、“支那”という言葉が最も早く日本に伝わったのは1713年のことであった。学者の新井白石はローマの探検家のシドッチ(Sidotti)から世界の概況を学んだが、それにより、「采覧異言」という世界地理の本を著した。この本は世界各国の地名の訳について、中国の「坤輿図説」という世界地理の本を参考にしたということである。白石がシドッチ(Sidotti)から聞いた“China”という言葉は、中国人が訳した“支那”という言葉で説明された。その時から、日本語の中で“支那”という言葉が使われて来た。当時、この言葉は学者の間で流行っていたが、“支那”という言葉を“モロコシ”で説明することが多かったようである。

“支那”という言葉が日本の民間で流行ったのは、明治以後のことであった。しかも、その時の“支那”という言葉には侮辱の意味は全くなかった。もちろん中国人もこの言葉に対して反感はなかった。むしろ一部の中国人は自分たちのことを“支那”と呼ばれることを喜んでいた。梁啓超は“支那少年”というペンネームを使った。また黄興他数人は「二十世紀支那」という雑誌を発行した。その当時中国の民間人は“清国”の統治に対しての不満の気持ちから“支那”を国号として呼んでいた。

日本人が中国のことを“支那”と呼び、中国人が不快と感じたのは、「21ケ条」・「パリ和会」・「辛亥革命」以後、日本の軍国主義が徐々に現れる時からである。当時、日本に留学していた郁達夫、郭沫若等は、“支那”と呼ばれることに、強い反感を持ち、それぞれの方法で日本政府に対して、この呼び方を止めてほしいと強く要求したということである。1930年5月26日、中国政府は国号の問題について、正式に日本政府に次のように要求した。“今後、日本政府が中国政府に公式書類を出す場合、「大支那共和国」という名称の使用を禁止し、「大中華民国」という名称を使わなければならない。もし、このまま続けて使うのなら、外交部は日本からの書類を一切拒絶する”。それから、日本政府は公式文書の名称はすべて変更したが、民間の一般的な文書や口語の中ではやはり“支那”が使用されていた。

現在、少数ではあるが、 “中国”という名称を使わない日本人がいる。その人たちはどうして“支那”を使い続けているのだろうか。一つは、“中国”という名称がとても傲慢だと感じるからであろう。中国という名称は自分の国が中心で、周辺の国は、まだ、未開の国だという馬鹿にするイメージが強い。この名称は自らを尊大とする。そして、自分が一番偉いという自我自賛の印象があると思われる。二つ目に、日本国内には“中国地方”という地名があり、まぎらわしいということである。実際に“中国地方”は古代に官吏が京都と九州の太宰府などへ行くのに、必ず経由しなければならない道ということから来た名前である。

このように、歴史の事実から“支那”という言葉を分析してみると、単に音訳の外来語であるということがはっきりしている。この言葉は本来何の侮蔑意味も含んでいないのに、ある人たちは、いつも無理やり目に見えない修飾語をつけて、自分の民族を歪曲されたとか自尊心を傷つけられたと思いがちである。そんなつまらないことを思う人は時代遅れであり、また、歴史を無視しているとしか思えない。

確かに戦争時代における暗い影響を消し去る事はできないが、中国人も日本人も“支那”という言葉の本来の意味、語源を今一度認識し、無用な誤解や諍いをなくすべきであろう。

2004年7月21日投稿