日は昇ったのか、沈んだままなのか 長寿で苦しむ「後期高齢者医療制度」

多民族国家中国が抱える少数民族問題

岸田 徹 【岸コラ】
2008年4月1日(火)

中国の人口密度 (Microsoftエンカルタ総合大百科2008 DVDより)ハーレムに多くの女性を侍らせている――こんな光景はいったいどこの世界で行われていたのか。日本でも大奥があったので、世界各地でハーレムは存在したのかもしれないが、もともとはイスラム教国での話だ。イスラム教徒の上流家庭で妻と妾の居室として近親者の男子以外は出入りを禁じられたところがハーレムだ。

中東地域を支配したアッバス朝で存在した宮廷ハーレムは千夜一夜物語に語られる。アッバス朝の都は今のイラクのバグダッドだ。イラク戦争で混乱するバグダッドからも貧しい生活をしているイスラム教徒からもハーレムの存在は連想できない。

アッバス朝(750年から1258年)の「イスラム帝国」は当時世界の繁栄を担ったが、世界にはもう一つの中心地があった。それが中国の「唐」だ。中国は四千年の歴史と紹介されるが、最古の王朝である「夏」をその起源とすると中国の歴史は四千年になる。「夏」は「殷」に滅ぼされるが、その「殷」は「周」に滅ぼされと中国の歴史は王朝の戦史でもある。

そんな戦争の歴史で秦の始皇帝が中国で初めて統一王朝をたてた(前221年)。北方の騎馬族から秦を守るために建てたのが万里の長城だ。今の中国領域がこのとき完成した。英語のChinaもこのときの「秦」からきている。

しかし、戦争の歴史は続き、「秦」は「漢」に、「漢」は「新」にと西欧がキリストの誕生を迎えた時代も反乱の歴史が続いていた。そんな戦乱の歴史に華やかな王朝ができた。高祖が建てた「唐」だ。この時代に北ではコムギの栽培もはじまり、南のコメの生産も増大した。東西貿易も盛んになりイランの商人が月の砂漠よろしくラクダの隊商をよこし、上海ではアラブ系のイスラム商人が来航した。交易を背景に国際的な貴族文化が花開いたほか、インドからは大量の仏教経典が入り、ペルシャのゾロアスター教やマニ教、キリスト教やイスラム教も入ってきてそれぞれ寺院も建てられた。国際的な君臣関係も結ばれ、日本も遣唐使を派遣し唐の文化や産物を輸入した。チベットで最初の王朝もこのころに建てられ、唐とは領土の奪い合いもしたが、僧侶の支配で唐と和親条約を締結した。しかし、チベットは王家が二分し、やがて離散する。

世界は「イスラム帝国」と中国の「唐」という二大文化圏が栄華を誇っていた。唐の玄宗皇帝は息子の妃だった楊貴妃を奪ってイスラム帝国で言うハーレムに入れ熱愛した。玄宗は楊貴妃の一族を登用するようになり混乱の材料を作る。その責任を取らされ楊貴妃一族を処刑することになってしまう。

こういう歴史は教科書にありながらも日本ではあまりなじみがない。その理由は恐らく、われわれが習っている歴史がキリスト教文明をベースにしているためだ。

誰が歴史を書いたかで歴史は大きく違う。中国の歴史は明らかに漢民族(漢族)の歴史だ。漢民族は中国語を話し、漢字で歴史と文化を残している。中国は56の民族が存在するが、92パーセントが漢民族。これに中国以外に生活する華僑も加わり漢民族の文化圏は広大だ。中国の少数民族問題というのは、漢民族以外の問題をいう。

もっとも漢民族が統一民族かどうかは断定できない側面がある。同じ中国語でも標準語以外に広東語、上海語などの方言があるが、日本の方言のように想像ができる域ではなく、お互いにまったく通じないと言われている。衣食住も北と南では大きく違う。しかし、中国のナショナリズムの中では他国の民族に対し漢民族の意識は強く、少数民族に対しる意識の中でも漢民族という意識ははっきりとしている。

中国では圧倒的な存在の漢民族なのだが、歴史の中では挫折もあるし優越性ばかりを語れない多民族国家の弱さもある。中国の歴史はひとつの王朝が統一する歴史と複数の王朝が乱立する分裂の歴史が繰り返されているが、漢民族がその主役を演じて中国の歴史を築いてきた。

ところが、重要な局面で漢民族以外に征服されている。それは二つの時代があり、ひとつは「元」。チンギス・ハーンがモンゴル諸部族を統一し勢力を拡大する中で彼の孫であるフビライ・ハーンが南宋を滅ぼし中国を征服した。巨大なモンゴル帝国の支配は西と東を安全につなぎ、貿易や文化の交流が盛んに行われた。マルコ・ポーロの東方見聞録はこの時代に書かれ、モンゴル帝国の繁栄はヨーロッパに広く伝わった。また同じ騎馬民族のチベット族が信仰したラマ教(チベット仏教)が宮廷では盛んになり各地に寺院が建立された。

たまたま「元」という国号を使ったから中国の歴史にうまく組み込まれているが、この時代はモンゴル人あっての中国で、今までの中国の歴史はここで終わってもおかしくないものだ。

約一世紀後に漢民族が明王朝を起こしてモンゴル勢力を北方に追いやったため中国は再び漢民族の歴史に戻った。漢民族が歴史をつづる時点で一時的に「モンゴル王朝」が中国を治めた歴史になったが、恐らく、モンゴルの歴史の中ではモンゴルが中国の歴史に出入りしたという意識はないはずだ。

もう一つは、日本とも深く関わる「清」だ。漢民族の「明」を満州族の「清」が征服する。清はオランダ人を追い出し台湾を領有し、モンゴルやチベット、東トルキスタンのジュンガルと勢いよく支配を広げた。中国人の象徴のように後頭部以外の髪を剃って後頭部の頭髪を編んで流している辮髪は満州族の風習で、これを漢民族に強要したのがこの時代だ。従わないと死刑にさせられたので清が滅びるまで続いた。

清はアヘン戦争をイギリスにより仕掛けられヨーロッパ列強による植民地化の危機にさらされた。これに日本とロシアが加わり、日本は日清戦争をおこし多額の賠償金を清に払わせることになると同時に台湾を領有した。清朝は外国勢力に国土を売る結果となり中国分割の不安は民衆の闘争を呼び起こすことになった。辛亥革命はこの流れに従うように起こり、中華民国建国のきっかけとなった。中国の王朝支配の歴史はここで終わる。革命の始まりは人民の発起とされるが、その根底には満州族の支配に対する漢民族の反発があったとされている。

もうひとつ、漢民族の優越性をストレートに語れない多民族国家の弱さは、支配が引きずる傷だ。たとえば、少数民族の一つに数えられている朝鮮族は、日本が朝鮮半島を統治する20世紀初頭に逃れてきた朝鮮人が中国に移住した人たちもいれば、明から清の時代に戦争捕虜として連れてこられた人々の子孫もいる。その中で漢民族との融合を図っているのだが、どこに朝鮮族のアイデンティティを求めたらいいのか、まだ乗り越える途上にある。

さらに、中国で圧倒的な多数を占める漢民族は、広大な領土の中では南東の半分に居住していて、残りの半分は少数民族で形成されている。また、それにつれて中国語圏も国土の東半分で西半分はチベット・ビルマ語派が占めている。数の上では多数を占めている中国語を話す漢民族は、領土の観点からすれば中国の半分ということになる。

中国の少数民族問題は実に複雑で、チベット問題も宗教の自由と民族自立の観点から解決すべきだとするのはキリスト教的な西欧文明の歴史観から言えることで、漢民族中心の歴史から見れば、まだ途上の問題だ。外部からの解決策がことの本質を解決できるはずもない。

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参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2008:「中国」「辛亥革命」「朝鮮」「漢民族」

参考サイト:

中国朝鮮族の民族語に対する言語意識からみるアイデンティティの考察

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