再び世界の渦に巻き込まれるトルコ(上) 「人の命より大事な組織」が広げた薬害肝炎

再び世界の渦に巻き込まれるトルコ(下)

岸田 徹 【岸コラ】
2007年10月16日(火)

このコラムは、前回の「再び世界の渦に巻き込まれるトルコ(上)」のつづきです。

この地図は「Microsoftエンカルタ総合大百科2007」の白地図をもとに作成したものです。アメリカ下院外交委員会の「アルメニア人虐殺」を非難する決議案は27対21で可決された(10月10日)。イラク戦争で重要な物資の供給基地となっているトルコはアメリカにとって今最も大切にすべき国の一つだ。外交委員会は、議長が中国の人権問題を厳しく批判してきたペロシ氏で、委員長はホロコースト(ナチス・ドイツのユダヤ人絶滅計画)の生き残りラントス氏、いづれも昨年の中間選挙で躍進した民主党の議員だ。

ラントス委員長は、「大虐殺は非難されねばならない。トルコとの関係は確かに重要だ。だが日本の慰安婦決議案の審議でも、『これを通せば日米関係に重大な結果が起きる』と警告があったが、なにも起きなかった」と決議案に賛成論を述べていたが(産経新聞)、日本政府の対応とは違い、トルコ政府はすぐさま厳しい行動に出た。

決議された翌日にトルコ政府はアメリカ駐在の大使を本国に召還し、予定されていた国務相の訪米も取りやめた。トルコ政府はこの問題で態度を硬化させたように見えるが、実は、アメリカ政府と一時的に断絶しなくてはならない理由がもうひとつあった。トルコでくすぶっていたクルド人問題に波及する結果になったのだ。

大使召還の翌日(12日)、ニューヨークの原油先物相場が約3週間ぶりに最高値を更新し、1バレル=83.69ドルになった。高騰の背景には、トルコがイラク国境を越えてクルド人組織に攻撃を加えるのではないかという懸念からイラクの原油生産が影響を受けるとの観測があった。トルコ政府は「イラクとの国境を越えた軍事作戦を含むあらゆる対策を取る」との声明を「アルメニア人虐殺」非難決議が可決される前日に発表していた(朝日新聞)。

クルド人の歴史は11世紀から異民族支配に対する抵抗の歴史で、現在でもその抵抗が続いている。14世紀にはオスマン・トルコ帝国に支配されたが、第一次世界大戦でクルドの独立がオスマン・トルコと連合国軍との間で認められた。これでオスマン・トルコ帝国は解体されるはずだったが、民族主義の指導者ケマル・アタチュルクは条約反対派を結成してオスマン・トルコ政府を倒し、ケマル・アタチュルクはトルコ共和国を樹立した。オスマン・トルコ政府倒幕運動に加わった参謀の中に「アルメニア人虐殺」の首謀者がいたと言われている。建国の父となったケマル・アタチュルクは、独立を望むクルド人を抑圧し、それ以来、クルドの反乱はトルコ、イラク、イランで起きている。

イラン・イラク戦争ではクルド人がイラン側についたので、サダム・フセイン政権のイラク軍によって多くのクルド人が殺された。難を逃れたクルド人は国連保護下でイラク北部の難民キャンプで生活をしていた。そこでクルド人による自治選挙が行われクルド人自治区が成立した(1992年)。しかし、内部抗争が起き二派に分かれ戦闘が起きたのだが、フセイン政権打倒を狙ったアメリカ政府が二派に停戦を合意させ、フセイン政権が倒れたら、クルド人国家を樹立するとアメリカ側は約束した模様で、二派はアメリカ軍とともにフセイン政権と戦った。

イラクのクルド人自治区には、トルコからクルド人が組織的に逃げ込んでいて、独立とテロ攻撃を恐れるトルコ軍がイラク国境を越えて攻撃を繰り返している。10月9日には国境付近でトルコに対する反政府クルド人武装組織「クルド労働党」とトルコ軍が衝突しトルコ軍兵士13人が死亡した。アメリカ下院がトルコが嫌がる「アルメニア人虐殺」を非難したのはちょうどその時だった。

先月末には、トルコとイラク両政府が「クルド労働党」の封じ込めを狙った「反テロ協定」を締結したのだが、現イラク政府はアメリカがてこ入れして作った政府。クルド人自治区政府はフセイン政権打倒のためにアメリカ政府に協力した経緯があるために、イラク政府はクルド人自治区政府に正面からものを言えない状態だ。そのため、トルコ、イラク両政府による「クルド労働党」への圧力は限界に達している。

この状態に不満を持っていたのがトルコ軍内部で、トルコのエルドアン首相への不満が高まっていた。トルコ内閣はイスラム色が強いが、イスラム色を嫌う軍部はクーデターの理由を常にうかがっているとも思える。トルコのエルドリアン首相はその状況を十分理解している模様で、なるべくイスラム色を出さない配慮がうかがえる。

イラクのクルド人自治区にトルコ軍が攻め入ったら、最も困るのがアメリカ政府だ。それでなくても混迷しているイラク情勢がさらに悪化する。エルドリアン首相はアメリカ政府の意向を重視する形で軍部のクルド自治区攻撃を抑えていたはずだ。そこに国境付近の戦闘で13人のトルコ兵を失い、トルコ軍の反撃機運が盛り上がっている。この時に、トルコ政府を「侮辱する」アルメニア人虐殺をアメリカ下院が決議した。エルドリアン首相は窮地に立たされている。アメリカ政府の意向をこれ以上尊重し続ければ、軍部は一挙にイスラム色の強いトルコ内閣に対して反旗をあげる可能性が出てくる。

さらに、これには大変な利権がからんでいる。実は、クルド自治政府が外国企業と独自に油田開発契約を次々に結んでいるのだ。イラクの中央政府は部族間の利害調整がなかなかできずに、石油の管理に関する石油法案はやっと今年の2月に国民議会に送付された状態。クルド自治政府はフセイン政権が崩壊した後すぐの2004年6月にノルウェー企業と開発契約を結び、以降トルコやカナダ、アメリカの石油会社と次々に契約を結んでいる。

アメリカ下院外交委員会が人権を擁護することを目的に「アルメニア人虐殺」を非難したい気持ちは「人権」がひとつの武器になりうる現在、理解できないことはない。しかし、それがなぜ今なのかはやはり不可解だ。

アルメニア人への抑圧でアメリカ大陸に渡った人たちがいる。今回の決議案もアルメニア系アメリカ人の意向を受けたカリフォルニア州選出の民主党下院議員から提出されたものだ。

アメリカ政府の意向とは裏腹に「アルメニア人虐殺」をトルコに向けて非難すればアメリカ政府は大変な不利益を被るかもしれないが、それはアメリカ政府の表面上の利害。今回のイラク戦争が何のための戦争だったのかが分らない状況では、石油の利権をフセイン政権打倒によって得られるはずだった勢力が、クルド人自治区政府にうまい汁を吸われていることに苛立っていたことは十分考えられる。

その中の勢力にロシア政府があったのではないか。ロシアはその南下政策でトルコの宿敵だった。ここで、アメリカ政府がいまさらアルメニア人虐殺問題を取り上げることに対しトルコに同情的に報道しトルコ側につけば、民族問題を抱えるロシアも自分の腹を痛めずにイラクの石油利権が再び転がり込んでくる可能性がある。

予想以上にクルド人自治区が反撃すれば、中東情勢はかつてない緊張状態になるのは必至だ。

この記事の読者数:


参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2007:「クルド」「セーブル条約」

米、トルコ説得に躍起 非難決議案 下院採択阻止を“公約” [2007年10月16日 産経新聞 東京朝刊]

イラク領攻撃、国会提案を決定 トルコ政府 [2007年10月16日 産経新聞 東京朝刊]

NY原油終値 最高値を更新 [2007年10月13日 産経新聞 大阪夕刊]

トルコ、駐米大使一時召還 [2007年10月13日 産経新聞 東京朝刊]

トルコ反発 米下院委「アルメニア人虐殺」非難決議 揺らぐ?同盟関係 [2007年10月12日 産経新聞 東京朝刊]

90年前の「アルメニア人虐殺」、米で非難決議案 トルコ猛反発、イラク協力停止示唆[2007年10月12日朝日新聞朝刊]

「イラク側クルド自治区に攻撃も」 トルコ首相が声明 [2007年10月11日読売新聞東京朝刊]

イラク・クルド自治政府、油田開発を独自に契約 中央政府、スンニ派反発 [2007年10月11日読売新聞東京朝刊]

トルコ兵13人死亡 クルド労働者党と交戦 [2007年10月9日読売新聞東京朝刊]

米下院委「慰安婦」決議案採択へ 民主「人権派」増加が背景 [2007年6月27日読売新聞東京朝刊]

【岸コラ】もくじ 【岸田コラム】 home

Copyright © Toru Kishida 2007 All Rights Reserved.