|
岸田 徹 【岸コラ】 |
不思議なことが起きている。
安倍さんが参議院選挙で大敗した直後、アメリカの下院は「慰安婦決議案」を採択し、「20世紀最大の人身売買事件の一つ」だと日本政府に公式な謝罪や歴史教育の徹底を要求した。
従軍慰安婦の軍慰安所は1931年の満州事変勃発に始まり第二次世界大戦にかけて存在した。それより前の第一次世界大戦時に当時のオスマン・トルコ帝国で起こった「アルメニア人虐殺」について公式に「ジェノサイド」(genocide 集団虐殺)と認めるアメリカ下院決議が現地時間の10日行われた。
「慰安婦決議」は、当初無視を決め込んでいた安倍さんがお詫びを繰り返し、国民意識もいらだつことはもちろんないままうやむやになった。トルコ政府の反応は、まったく違う。議決前にトルコの人気実力者であるエルドアン首相はブッシュ大統領に電話をし「両国関係に重大な打撃を与える」と議会を思い留らせるよう要請した。
トルコはこの問題をいわば国のタブーとしてきた。この問題を他国がつつくことは、けんかを売るも同然。アメリカはトルコにけんかを仕掛けて得することは何もない。ヨーロッパと中東とアジアの要に位置するトルコは地政学的に重要な位置にありアメリカは、長いこと友好関係を保ち、軍事的にも協力関係にある。イラクの軍事活動に必要な物資は7割以上をトルコの基地から経由して運んでいる。今のアメリカにはなくてはならない存在だ。それなのになぜ今という時を選んで90年前の出来事を非難したのか。不思議な問題だ。不思議はまだ続く。
このアメリカ下院の決議を、ロシアのテレビ局がニュース番組で多くの時間をかけて報道している。アルメニアはかつてソ連邦を形成する一員だったが、アルメニア住民はソ連からの分離独立を強力に主張し圧倒的多数で分離独立を決め、今はアルメニア共和国となっている。そのアルメニアに関連したニュースをどうしてロシアが執拗に報道したのか。
さらに、最大の不思議はトルコがなぜ「アルメニア人虐殺」をタブー視したかだ。歴史は時の権力者が自分の都合のいいように作るもの。「アルメニア人虐殺」はオスマン・トルコ帝国での事件で、現トルコ共和国とは無関係とすることができる事柄だ。現在のトルコは、映画「アラビアのロレンス」のモデルとなった第一次世界大戦で負けたオスマン・トルコ帝国がイギリスなどの連合国に占領されているときに独立戦争を起こしたトルコ国民党が樹立した国家だ。オスマン・トルコ政権を悪者にして、トルコ共和国はその殺戮事件を非難すればそれで済むはずだ。
これらの不思議をすべて解くことは残念ながらできない。しかし、今のトルコがどのような状況下にあるのかを書くことによって、問題に対して理解を進めることはできる。世界の勢力図が塗り替えられようとしている中でトルコは再び大きく揺れている。
トルコ建国の父はケマル・アタチュルク。第一次大戦で活躍した将軍だったが敗戦。すぐにトルコ民族運動を率い防衛軍をつくった。敗戦条約で連合国軍に首都を占有されアナトリア半島をギリシャの支配となることに反対し、条約を結ぼうとしたオスマン帝国の政府に闘いを挑んだ。国民政府を樹立し、ギリシャ軍との戦いに勝った後、オスマン帝国を滅亡させ、自ら大統領となるトルコ共和国を宣言した。そこで、世界を凌駕した最後のイスラム帝国だったオスマン・トルコ帝国は滅亡した。これ以降、トルコの政治は政教分離政策がとられてきた。世俗主義と呼ばれている。
世俗主義は現在でもトルコの国是とされているが、2002年にイスラム教色の強い公正発展党の副党首のギュル氏が首相になり、イスラム政党単独政権が誕生した。党首のエルドアン氏が後に首相になりギュル氏は外相になったが、今年8月にギュル氏は大統領に選出された。オスマン・トルコ帝国時代の末期には歴史に取り残された思いから、現トルコ共和国はケマル・アタチュルクの時代から西欧化に特化し、国民の多くがイスラム教徒である国家の運営の中にあっても政治のイスラム化を大統領がけん制してきた。これがトルコの世俗主義だ。世俗主義はイスラム化を嫌う軍部の後押しがある。
国民の多くもイスラム教は信じるものの思想信条の自由は西欧的であることを望んでいるようだ。トルコは公の場で女性がイスラム教徒の象徴ともいえるスカーフをすることを禁じている。ところが、エルドアン首相の夫人もギュル大統領の夫人もスカーフを外そうとはしない熱心なイスラム教徒だ。トルコ国民はなぜイスラムの教えを大事にする首相と大統領を選んだのか。これには二つの理由が挙げられている。
ひとつは、エルドアン首相のカリスマ性と人気で、その人気の裏にはイスラム色を出さない政党運営がある。もうひとつは、トルコの近代化によって豊かになった中産階級や穏健イスラム教徒が望む更なる経済発展要求に対して、前大統領の世俗主義が「抵抗勢力」のように映ってしまった点だ。ただ、国民自身も政権政党も急激なイスラム化を望んでいるわけではない。トルコは相変わらず親米、親イスラエルの国だ。ただし、イラク戦争への軍事協力には政権がアメリカに基地の提供を申し出たものの、与党の反対で否決された。ある意味で、トルコの与党は見識ある判断を出したと言える。
トルコの悲願はEU加盟だ。ところが、EUは再三の加盟申請にもかかわらずなかなか明快なYesを出さない。特に、フランス、ドイツの両国はトルコの申請には冷たい反応だ。フランスは国民議会が「アルメニア人虐殺」を否定することは犯罪になるという法案を賛成多数で可決した(2006年10月)。トルコのEU参加問題のこじれは、EUはキリスト教国連盟だという非難を誘っている。
さて、本丸の「アルメニア人虐殺」は、トルコ政府が事件を語ること自体を禁止しているため、どうしてトルコ政府がタブー視しているのかは自由な歴史学的論争がされていない。ただ、大量虐殺とのイメージは強い者が弱い者を抹殺する印象があるが、実態はおそらく逆なのだろう。弱い者は放っておけば消滅するからだ。アルメニア人と一言でいっても様々で、虐殺されたアルメニア人の中には、オスマン・トルコ帝国で中枢をなした官僚や事業家がいた。この財産を奪取したトルコ人の一部にケマル・アタチュルクの革命運動に加わった人たちがいたとの指摘がある。
この記事の読者数:
参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2007:「トルコ」「アルメニア」「ケマル・アタチュルク」
90年前の「アルメニア人虐殺」、米で非難決議案 トルコ猛反発、イラク協力停止示唆 [2007年10月12日朝日新聞東京朝刊]
「スカーフ、大学は解禁」エルドアン首相が意向/トルコ [2007年9月20日読売新聞東京朝刊]
トルコ新内閣が発足 [2007年8月30日読売新聞東京朝刊]
[プロフィル]トルコ新大統領に選出された アブドラ・ギュル氏56 [2007年8月29日読売新聞東京朝刊]
トルコ大統領にギュル氏 国会が選出 初のイスラム系 [2007年8月29日読売新聞東京朝刊]
米下院の慰安婦採択 安倍首相「決議は残念」 [2007年7月31日読売新聞東京夕刊]
米下院で慰安婦決議 公式謝罪要求、本会議で初の採択 [2007年7月31日読売新聞東京夕刊]
[点検・安倍外交]初訪米(上)慰安婦問題、軟着陸か(連載) [2007年4月28日読売新聞東京朝刊]
[50歳のEU](10)トルコ加盟に拒絶反応(連載) [2007年3月3日読売新聞東京朝刊]
トルコ大統領選の第1回投票 ギュル外相がトップ [2007年8月21日読売新聞東京朝刊]
アルメニア人虐殺 仏「否定は犯罪」可決 トルコ反発「敵対行為」 [2006年10月13日読売新聞東京朝刊]
参考サイト:
トルコ反発 米下院委「アルメニア人虐殺」非難決議 揺らぐ?同盟関係
2007/10/11-08:41 アルメニア人虐殺非難決議案を承認=「ジェノサイド」と認定−米外交委
![]() |
![]() |
Copyright (C) Toru Kishida 2007 All Rights Reserved.