安倍辞任は「中二階」の逆転劇 ミャンマーの軍事政権はなぜ生き残るのか。

アフガニスタンで問われる「国際社会の日本」

岸田 徹 【岸コラ】
2007年9月21日(金)

松浪健四郎議員国会の壇上から野党の永田寿康議員目指してコップの水が飛んできた。飛ばしたのは当時保守党の松浪健四郎議員だ(2000年11月)。加藤の乱を誘発した森内閣の不信任決議案が審議されていた。松浪議員はその反対討論を行っていたのだが、野党席からのヤジに我慢できず、手元にあったコップの水をまいた。どんなヤジだったかははっきりしないが、保守党党首だった扇千景さんとの関係をヤジられたとの噂が立った。松浪議員は国会の歴史では52年ぶりに議長から退場を命じられ、懲罰委員会の処罰を受けた。

松浪議員には、その後暴力団の組員が会長をしていた会社に松浪議員の秘書給与を肩代わりさせていた問題が浮上した。トレードマークのちょんまげを切って「反省」を強調したのだが、非難は収まらず、議員辞職の声が高まった。松浪議員の気持ちは揺れたというが、議席にとどまる決意をした。その理由を記者会見で述べた。「スポーツマンとして(辞職して)潔しとするのか、それとも説明責任を果たすべきなのか、苦しんできました」(読売新聞・2003年4月)。

スポーツマンであるという松浪議員は、日本体育大学に在学中アメリカの東ミシガン大学(州立)に編入し、全米レスリング選手権大会で優勝した(1969年)。その後日本大学の大学院で文学研究科の博士課程を修了、アフガニスタン国立カブール大学でレスリングを教える教員になった(国際交流基金派遣・1975年)。期間は3年だったが、その教え子が現地で活躍しているようで、松浪議員は日本政府とアフガニスタンを結ぶ唯一とも言える橋渡し役的存在になった。

実は、日本とアフガニスタンは長いこと国交がない状態だった。松浪議員がアフガニスタンを去った後、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、アフガニスタンにはソ連政府の傀儡(かいらい)と言われる政権ができた。アフガニスタンはイスラム国だが、松浪議員がアフガニスタンを去ったその年に、クーデターが起こり、新政権はイスラムの主義とは違う社会主義的な政策を進めた。これに反対するイスラム教徒が各地でゲリラ戦を展開し、新政権の書記長が暗殺された。代わった書記長は自分の権力基盤を強めるためにアメリカに寄り添ったため、ソ連が攻めたのがいわゆるソ連の「アフガニスタン侵攻」だ(1979年)。

この軍事行動にアメリカを中心とした西側諸国が反発したのは言うまでもない。直後のモスクワ・オリンピックは日本を含む西側諸国の大半がボイコットした。裏では、西側諸国が反政府派のゲリラ活動家を支援した。この時できたのが「アル・カーイダ」だ。当時は反政府ゲリラに寝食を提供するのが役目だったというが、その組織を結成し統率したのがウサマ・ビンラーディンだ。皮肉なことだがアル・カーイダはアメリカを中心とする西側諸国が反ソ連のために支援した組織だった。

ソ連は11万8千人の軍隊を送ったが、厳しい山岳の自然とゲリラ活動に悩まされ、1万5千人の兵隊を失った。この事態に傀儡政権は力を落とし、イスラム教徒との和解を進めた。一方、ソ連では改革を訴えるゴルバチョフ政権が誕生し、アフガニスタンから撤退した(1989年)。その後もアフガニスタンは内戦が続き、イスラム原理主義のタリバーンが出現してくる。タリバーンは戦火のやまない祖国にうんざりしていた民衆の心をつかみ、一時アフガニスタンのほぼ全土を掌握した。

アフガニスタン侵攻からアメリカの9.11事件までの22年間、アフガニスタンでは様々な政権が現れては消えたが、日本政府はアフガニスタンの政権をどれ一つとして承認しなかった。その中には、タリバーン政権も含まれる。松浪議員は日本政府のパイプがない分を補ったのだ。ソ連侵攻のきっかけを作ったクデターが起こる前に国王だったザーヒル国王が今年の7月に亡くなったが、その葬儀に日本を代表して参列したのも松浪議員だった。

ザーヒル国王は、クデターで王位を追われイタリアで亡命生活を送っていたが、タリバーン政権が崩壊した後帰国し「権力の座は求めない」と表明、現在のカルザイ大統領と争うことはなく、国民から「国父」と敬愛された。

ザーヒル国王の父であるナーディル国王は経済改革に重点を置いた政策を行ったが、その支援を行ったのはドイツ、イタリア、日本の枢軸国だった。日本はアフガニスタンと修好条約を結んだ(1930年)。アフガニスタンがアメリカと国交を結ぶ12年も前から日本はアフガニスタンと友好的な関係にあった。アフガニスタンがなぜ枢軸国と仲が良かったかは、アフガニスタンの近代史がイギリスとの戦争の歴史だったからだろう。

アフガニスタンはインド半島北西部のパンジャブ地方をアフガンの権利が及ぶようインドのイギリス植民地政府に求めた。ところが、イギリスは直接支配をしたかったためにその求めを断った。そこで、アフガニスタンはロシアに助けを求めた。イギリスはロシアにインドを取られるのを恐れ、ロシアを撤退させるよう求めたがアフガニスタンが拒否、そのためイギリス・インド軍がアフガニスタンに侵攻した(1838年)。この戦争は長引き、第1次から第3次までまで続いたが、イギリスが第1次世界大戦に疲れ、インドの反乱に困り果てると終わりを見ることになった(1919年)。

日本とは親密な関係を結んだナーディル国王だったが暗殺され(1933年)、前王の息子だったザーヒル・シャーが新国王になった。まだ19歳だった。ザーヒル国王は第2次世界大戦がはじまると中立を宣言したが、イギリスとソ連の要望で200人以上のドイツとイタリアの政府関係者を国外追放した。その後アメリカと国交を樹立し、戦後すぐに国連に加盟した。

日本とアフガニスタンの関係は、第2次世界大戦の結果で一つの歴史にピリオードが打たれた。戦後日本人にとっては全く未知の国になってしまった。未知の国に急にスポットライトが浴びせられたのは、2001年の9.11事件で、アメリカが首謀者のウサマ・ビンラーディンを引き渡せとアフガニスタンのタリバーン政権に迫ってからだ。タリバーンはこれを拒否。

国連は、アメリカからの要請で集団的自衛権の行使を採択し、国際社会は協力して武力でテロ組織をかくまったとするタリバーンを攻撃した(2001年10月7日から)。タリバーンは最後の砦だった南部のカンダハールを放棄し、アメリカはその時点で勝利宣言を行った(2001年12月7日)。その後、暫定政権が樹立され、カルザイ氏が正式政権の大統領に就任した(2004年10月)。

順調に進んでいるかのように見えた新政権だったが、国際社会の駐留軍は南部で行われているケシの栽培を禁止したため、農民たちの生活が困窮し、再びタリバーンを支持する人たちが多くなった。国際社会のNATO軍は南部のタリバーン掃討作戦を展開しているが、決定的な結果が得られていない。市民生活に溶け込んでいるタリバーンのゲリラを攻撃するたびに多くに一般市民が犠牲になり、その憎悪がタリバーンに協力するという悪循環が生まれている。

そんな状況の時に、国際社会が協力して送り出している軍隊に洋上給油活動を展開していた海上自衛隊の活動根拠の法律であるテロ特措法が期限を迎え、参議院選挙の結果多数を占めた民主党は法律の延長には賛成しないと表明した。これで、日本の海上自衛隊はインド洋での給油活動ができなくなる。

国際社会は、テロ撲滅のために外国に軍隊を動員している。日本は補給活動とはいえ、国際社会の中では中心的な役割を果たしている。国際社会はテロから身を守るため国連で集団的自衛権の行使を採択した。国際社会という社会がどんな社会かは分らないが、少なくとも西欧諸国と日本はその社会の一員だ。では、国際社会の一員ではないのはどこなのか、タリバーンや北朝鮮、イランなどの名前が浮かぶ。

実は、ちょっと前までは日本もその国際社会に入れない孤立の国だった。第2次世界大戦では長崎、広島に原爆を投下され、沖縄では掃討作戦を実行された。戦後もすぐに国際社会への参加はできず、日本は戦後初めてのオリンピックだったロンドン大会には招待されなかった。経済成長で国力が付き財政的に国際社会への貢献ができてから徐々にその一員となったと言える。

国際社会は圧倒的に強い立場の国とその国に服従する国々の集まりだ。日本はかつてその集まりに抵抗し、また服従もして、現在国際社会の中心部にいる。中心部にいるとはいえ、広島、長崎に落とされた原爆のことは決して忘れないし、沖縄での惨状は涙なしには聞くことができない。国際社会の一員で日本は唯一国際社会からひどい目にあっている国だ。アフガニスタンがそんな国際社会の振る舞いに右往左往している。それなのに、日本は給油だ補給だとただ一方的に国際社会の主張だけを展開するのでは歴史の教訓を無駄にしている。

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参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2007:「アフガニスタン」「アル・カーイダ」

アフガンの「国父」 ザヒル・シャー元国王死去 92歳 [2007年7月24日産経新聞東京朝刊]

9・11米同時テロから5年 安全優先、強まる監視=見開き特集 [2006年9月10日読売新聞東京朝刊]

「ちょんまげ切り決着か」 “松浪流反省”に批判 野党議員ら「甘い処分」 [2003年4月22日読売新聞大阪朝刊]

同時テロ・インタビュー 日本外交の独自性示す時 衆院議員・松浪健四郎氏 [2001年9月29日読売新聞東京朝刊]

保守・松浪議員の「水まき」 議長命令の退場、52年ぶり4件目 [2000年11月21日読売新聞東京夕刊]

清川正二さん死去 モスクワ五輪、硬骨「ボイコット反対」 JOCを痛烈批判 [1999年4月13日読売新聞東京夕刊]

アジア大会のイラク締め出し 秘密総会“波乱の選択” [1990年9月21日読売新聞東京朝刊]

参考サイト:

アフガニスタン・イスラム共和国

アフガニスタンQ&A

Resolution 1368(2001), Security Council

安保理決議1368(訳文)

社団法人日本・アフガニスタン協会

日本・中東イスラーム関係の再構築−中東イスラーム地域研究の新地平 (2002-2004)

松浪健四郎経歴

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