|
岸田 徹 【岸コラ】 |
「まじめに払ってきた年金が給付されないという理不尽なことはしないということをはっきりと申し上げておく」(読売新聞)、安倍首相は先日の党首討論で釘をさすようにこう述べ、5年の時効をなくして年金を全額を補償する「年金時効撤廃特例法案」をすぐに成立させたい意向を表明した。
60歳を過ぎたある男が、去年の秋、大阪府内で年金受給の手続を取ろうとした。ところが、その男には19年前に家族から失踪届が出ていて戸籍が抹消されていた。そのため年金受給の手続ができない。そこで、男は家庭裁判所に行き、戸籍の再登録を求めた。どうして自分の家族から喪失届が出たのか、男は家裁の職員に経緯を説明し始めた。すぐに男はある事件のことを述べずに済ますことが困難な状況になった。北九州市で1988年に起きた殺人事件だ。事件はタクシー会社の営業所で配車を担当していた当時71歳の片山さんが鈍器で頭を殴られ、売上金34万円が奪われたもの。翌日、山の中でこの男のタクシーが見つかり、「ひどいことをしてしまった。一命をもって償います」と書かれたメモと片山さんの血がついた男の制服が発見された。捜査本部は片山さん殺しは借金返済に困ったこの男の犯行と断定し、全国に指名手配した。
大阪府内の家裁職員はこの男の事情説明で殺人事件のことを知らされ、すぐに福岡県警に通報した。県警は男に小倉まで任意同行を求め事情を聞いた。ギャンブルで借金ができ金に困った殺人だったと男は供述した。しかし、この事件は2003年1月に公訴時効が成立しており、男の刑事責任はすでに問えなかった。県警は事情聴取後はなす術がなく、男は「大阪に帰る」と言い残して小倉北署を出たという(読売新聞)。県警は遺族に事情を説明し、読売新聞は遺族に取材をしたが「そっとしておいてほしい」と繰り返すばかりだった。
公訴時効は、死刑にあたる罪は25年、無期は15年、長期は10年から拘留にあたる罪の1年まで定めてある。また、たとえ刑が決まっても、脱走など刑の執行を受けないまま経過すると、死刑の場合は30年、無期は20年から拘留の場合の1年まで、この期間の経過で刑そのものも時効が成立する。
刑法上の時効以外にも様々な時効がある。例えば、治療費などを未払いにしても3年で時効になるし、デパートや商店、床屋さんや美容室、塾などの授業料なども2年で時効。また、ホテルの宿泊費やバーや居酒屋の飲食代は1年で時効。給料ももらえないままが続くと1年で時効だ。
これらの時効は日常生活でよくあるものとして民法上で細かく決められたものだ。これ以外には民事の債権については10年、国を相手にした債権は5年というのが一般的な時効として言われている。今回の年金請求権の時効撤廃特例法案は、国を相手に年金の請求ができる5年を撤廃しようとするもの。安倍さんが言う「まじめに払ってきた年金が給付されないという理不尽」に対処するために時効を撤廃しようとしている。
しかし、世の中には殺人事件から各種の支払請求にいたるまで「時効の壁」に阻まれる理不尽が跡を絶たない。怒りや悲劇が絶えなくても時効はなくならず、いわば日本人は周囲を「時効の壁」に囲まれながら社会を形成してきた。
法律の分野でも常に問題となる時効の厚い壁は何のためにあるのか。エンカルタ大百科(マイクロソフト)によれば存在理由は次の3点――(1)永続した事実状態の尊重、(2)権利のうえにねむる者は保護に値しないということ、(3)時間がたつと権利関係の証明が困難になること。
宙に浮いた5千万件の年金データは時効がなくなろうとしている。前代未聞の出来事だ。日本の社会がかたくなに守ってきた時効が年金受給に関してはなくなる。時効の有益性を無視することになる。
無視した結果は時効の存在理由が裏返しになるので、年金については、(1)現在まで続いている色々な事実の積み重ねが年金受給額の変更によって覆されることを許し、(2)十分生活ができている年金受給者にまで年金額を増やし、(3)証明困難なデータの突合作業を莫大な費用を掛けて行なうことになる。
データの突合作業だけがクローズアップされているが、時効をなくすことにより、(1)と(2)の問題は無視できない大きな問題になる。
具体的に言えば、宙に浮いた5千万件のデータを我々は前提としないで年金保険料を納めていたわけで、これを前提とすれば、年金受給額が増える分、保険料も上がる。宙に浮いているのはデータであって、誰にあげていいか分からないお金が浮いているわけではないからだ。恐らく政府はこれによって生じる新たな保険料の徴収はしないと宣言するだろうが、年金財政はすでに破綻しているので、保険料を上げずに受給額を増やせば、税金の投入額を増やすしか方法がない。保険料か税金か名目が違うだけでいずれにしろ我々の負担は上がる。
さらに、理屈の上からすれば、増えた年金受給額は本来なら所得税の申告をしなおさなければならない。これを政府はさかのぼって申告する必要はないし、一時金で受取った差額の年金も税務申告する必要はないとしている。それはそうだろう、そんなことをしたら税務署がパンクしてしまうし、政府の人気ががた落ちになる。
しかし、これは本来ならちゃんと納税され我々の生活に還元されるべきものだ。それをしなくていいということになれば、だれかが不利益を被ることになる。それは役所ではなく国民だ。国が脱税を認めるというおろかな法律で、成立してしまったら世界の歴史に汚名を残すだろう。
5千万件のデータの突合もいいだろうし、年金の受給額がもっと多いはずだと社会保険庁の窓口に行き、窓口では丁寧に対応するのもいい。しかし、時効は時効だ。全廃してしまったのでは、この過ちを知らずに動いていた社会はやり直さなくてはならなくなる。そのリスクは大きく、多くの国民にはプラスにならないばかりか、マイナスが出てくる。
間違いや理不尽は質さなくてはならないが、それによって新たな被害者が出てくるのが世の中の仕組みだ。時効はそれを調整できる唯一の機能。年金データが宙に浮いてしまったまさにこういう時のために時効はある。
国民が怒っているのは年金の請求に時効があるからではない。社会保険庁のずさんな事務管理に不満はあるだろうが、本当に怒っているのは、年金は掛けるだけでもらう段になったらもらえなくなるのではないかという疑問に対して、誰も何も答えようとしないことだ。
移民を受入れるとか、戦争をしないで国債残高を減らす方法とか、もっと抜本的に年金のもらえる仕組みについて考えてくれることを期待しているのに、野党も与党もマスコミも目先の問題ばかりを取り上げて、あたかもこれが国民の怒りだ不安だと煽る。自民党は選挙対策で時効撤廃を言わざるをえなかったとの評論もあるが、これはある種のプロパガンダで、国民の危機を前面に出して政府の支持を仰ごうというやり方だ。
この記事の読者数:
このコラムに関連する【岸コラ】
参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2007:「時効」
[社説]党首討論 「年金記録漏れ」は大事な問題だが [2007年5月31日読売新聞東京朝刊]
年金記録漏れ問題 救済法案を提出/政府・与党 [2007年5月30日読売新聞東京朝刊]
年金請求権の時効撤廃特例法案 首相、今国会提出を指示 [2007年5月28日産経新聞東京朝刊]
![]() |
![]() |
Copyright (C) Toru Kishida 2007 All Rights Reserved.