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岸田 徹 【岸コラ】 |
天皇陛下の皇太子時代の教育係だった浜尾実氏が去年諏訪の老人ホームで亡くなり、葬儀が四ツ谷の聖イグナチオ教会で行なわれた。熱心なカトリック信者だった。
その弟さんの浜尾文郎氏はローマ・グレゴリアーナ大学を卒業し司祭になった方だ。ラテン語、イタリア語、英語に堪能で、来日したローマ法王ヨハネ・パウロ2世(当時・1981年)の通訳を行い、後にバチカンに招請され、現在は枢機卿だ。
文郎氏が16歳でカトリック信者になった動機は、戦後の混乱時に新しいものを求めて共産主義とキリスト教双方の主張を聞いた結果、「人間はダメな存在だけど神は愛してくれるというキリスト教の方に魅力を感じ」たからだという(読売新聞)。
「神は愛」――それにしては、聖書の記述には首を傾げたくなるものも多い。その中のひとつに「バベルの塔」の話がある。
話は短く、手許にある1,500ページほどの旧約聖書のうちのたった20行だ。1ページにも満たないが、話の内容をかいつまむとこうだ。
世界中では同じ言葉をしゃべっていたが、東方からやってきた人たちが、石やしっくいの代わりに、レンガとアスファルトで「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と塔を建て始めた。すると天から神が降りてきてこう言った。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」
これにより、人々は互いに言葉が通じなくなり、世界に散らばっていったという話だ。神が言葉を混乱(バラル)させたので、この町はバベルと呼ばれるようになった。
世界中の人たちが自由に意見を交換することができたら、争いはある程度防げるはずだと我々は信じている。ところが、神はわざと言葉を通じなくさせた。いったい、なぜ。
バベルの塔の話は、旧約聖書のはじめを飾る「創世記」の中に出てくる。創世記は天地創造から始まって、アダムとイブが神の言いつけを守らず蛇にそそのかされてリンゴを食べたことから智を知るようになってしまい、怒った神は蛇に永遠に地を這わせ、女は産む苦しみを男は収穫の苦労を与える運命にさせてしまう。それからアダムとイブの子孫たちは堕落し、人類をつくった神が後悔をしてこの世から生き物を絶滅させようとしたのだが、ノアだけが神に従う無垢な人だったので、ノアとその家族を助けるためにノアに箱舟を造らせる。ノアが100年かけて造った船にすべての動物を対で乗せさせると大洪水が起こり、ノアの家族と船に乗った生き物だけが助かる。ノアには3人の息子がいて、全世界の人々はこの3人から増えていく。そこまで書かれた後に、バベルの塔の話が20行出て来て、それが終わると、その3人のうちの子孫の1人で神から絶大な信頼を得るアブラハムが登場する。子供に恵まれなかったが100歳の時に90歳の妻に神は子供を授ける。神は信仰深いアブラハムを試すためにやっと生まれた子供のイサクを生贄にするよう命じ、アブラハムがイサクに手を掛けようとした瞬間神の使いが止めさせる。その後、創世記の記述は子孫の動向を述べて、次の「出エジプト記」につづく。
創世記ではいったい神の愛って何なのか分らぬまま不思議なストーリーがスリリングに登場する。そんな展開だから、バベルの塔の話も語られるときには、無謀な人類が神に近づこうとして塔を建て、それに怒った神が嵐を起こし塔を破壊し、言葉が通じなくなった人々は逃げるようにその地を出て行くというふうに語られる。
そして、教訓のように神に反逆する行為を戒めると同時にコミュニケーションの重要性を説く。あるいは、人類が英知を集結させれば神に近づくことができるが、それは厳に慎まなくてはならないことだと解説が付く。人工授精に反対する場合はよく引用される。
しかし、実際の聖書の記述は、神が怒ったとも書いていないし、バベルの塔も破壊されていない。この話を極めて私的に解釈すると浮かんでくるのは次の3点だ。
(1)人類がひとつになって英知を集結することは大変な技術力や科学力を生み出し、人類はそれで幸せになると信じられてしまうが、それは神も哀れむほど人類の幸せには直結しない。
(2)コミュニケーションは人間を組織的に行動させるが、そもそもコミュニケーションが完璧にできることはない。そのため人間は最終的には大きな組織のコントロールができなくなってしまう。
(3)言語の違いは乗り越えるものではなく、侵してはならないものである。
結局人間はダメなのだが、神はそれでも人類を愛している。愛する人類の幸せのために神は組織立った行動で人類が不幸になることがないよう、言語をばらばらにし、世界中に散らばせたのだと解釈する方が自然だと感じる。
旧約聖書の記述内容が伝承され始めたのは、恐らく3千年か4千年前のことだろうが、聖書の形態になったラテン語聖書を本格的に近代語訳されたのは中世の宗教改革のときだった。英語やドイツ語やフランス語になったのは500年ほど前のこと(日本語訳は明治時代の時)。この500年間はヨーロッパ文明の中でも聖書の記述内容を代々語れる環境になった。
聖書は神が示す教訓書や律法書の様相はあっても、人の生き方を規定するものではない。むしろ、人間の弱さが前面に出ている人間についての記述書だ。また、旧約聖書は東地中海諸国の民族にとっては人類の歴史書にもなっている。
キリスト教圏のヨーロッパやアメリカにとっては、これらの物語は民族の当事者としてもあるいは第三者としても読める立場にある。それなのに、人類の英知を集結させ、組織立った行動をする危険性についての認識が足りないのは、まさに人間だということか。
グローバル化はよいことだと一般に信じられているが決していい事ばかりではない。むしろ聖書の世界では世界的に組織だって活動することは戒めるべきことだと記述されている。
日本もグローバルな世界を追い求めていると、取り返しのつかないことになる。合併合併で世界企業になること、同盟同盟でアメリカと戦争含みで仲良くなること――これらはバベルの塔現象だ。いつか誰もコントロールできなくなってだれも望まない悲惨な戦いにのめり込んでしまう。
参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2007:「聖書」
映画「バベル」 心届かぬ もどかしさ [2007年05月02日 産経新聞東京朝刊]
浜尾実氏(元東宮侍従)死去 [2006年10月27日読売新聞東京朝刊]
【EU拡大の皮算用】(中)バベルの塔/膨張する閣僚機構 [1994年11月23日 産経新聞東京朝刊]
参考サイト:
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