「敵兵を救助せよ!」が物語る別の真実 もうひとつの「人間天皇」

五嶋龍さんと五嶋みどりさんの母と龍さんの父

岸田 徹 【岸コラ】
2006年8月8日(火)

母親の厳しい指導で2歳からバイオリンを始め、7歳でパガニーニの難曲バイオリン協奏曲第一番でコンサートデビューを果たし、世界で活躍する18歳の青年が五嶋龍さんだ。趣味は空手で黒帯の2段。昨年末アメリカ最古の大学名門ハーバードに合格し今年から物理学を専攻する。すでに世界を舞台にしている五嶋みどりさんの弟だ。五嶋みどりさんも3歳から母親の厳しい指導で名バイオリニストになったが、みどりさんと龍さんとは父親が違う。話は大きくそれて、再び五嶋龍さんの話に戻る。

プリクラの爆発的な人気で有名になった業務用テレビゲーム機の最大手セガ。もともとは50年以上前に日本で最初のジュークボックスを生産した会社だった(1951年)。その後会社の吸収合併を通じながら業務用ゲーム機の製造を開始したのだが(1964年)、家庭用のゲーム機を発売したころに大川功氏のCSKが資本参加し(1984年)、「大川グループ」の中で会社を大きくした。

すぐにヨーロッパとアメリカに子会社をつくり、業務用ゲーム機の定番になった「UFOキャッチャー」や「テトリス」などのヒットを飛ばした。勢いは止まらず、東証二部に上場後(1988年)、東証一部に。ヨーロッパでは個人客を相手に販売を延ばし、国内ではテーマパーク向けのアトラクションに本腰を入れた。32ビット時代到来とともに家庭用ゲーム機「セガサターン」を発売(1994年)。

続いてプリクラが大ヒット(1995年)。さらにスピルバーグ監督の制作会社とユニバーサル・スタジオとで合弁会社を立ち上げ、お台場に「東京ジョイポリス」を開業した。

そこで、次世代家庭用ゲームの「ドリームキャスト」を市場に投入した(1998年)。ドリームキャストは日本ばかりでなくアメリカとヨーロッパにも大々的に投入した。ところが、128ビットの高機能を持ちながらもソフト面の開発が遅れ、ソニーの「プレーステーション」と任天堂の「ニンテンドー64」に市場を奪われ、莫大な赤字を抱えることになった。

その後セガはゲーム機初のネットワーク・ビジネスを展開するがドリームキャストの赤字を回収することは困難で、大川功氏(会長兼社長)は私財を500億円投じ躍起となるが、競争はますます激化しドリームキャストからの撤退を決断。これに伴う損失補填のため、大川氏はさらに850億円相当の私財をセガに贈与した。

「事業で得た金は事業に返す。セガは私の人生」とセガ再建に情熱を燃やしたが、食道癌のためセガの再建を見ないまま亡くなった(2001年3月)。

主を失ったセガは、買収劇にさらされる。ゲームソフト大手のナムコと提携し経営統合に進むかと思わせたが、アメリカでの販売不振できっかけがつかめずにいるところ、パチスロ機最大手のサミーが合併話を持ちかけてきた。これでセガはナムコとの統合を白紙に戻すと、今度はナムコがセガに合併提案をした。すると今度はサミーに合併話を白紙撤回するなどセガの買収話は大混乱を招いた。

そこでサミーは、CSKが持っているセガの株式を買取り筆頭株主となってセガの経営権を取った。その後、セガとサミーは経営統合することになる(2004年10月)。

いわばサミー傘下に入ったセガは、サミーがCSKの株式を取得した直後に臨時株主総会と取締役会を開き、サミーの里見社長がセガの代表権のある会長に就任した(2004年2月)。その際、大川氏のあとを継いだCSKの会長だった青園氏と理事だった金城摩承(かねしろまこと)氏はセガの取締役から退いた。このとき金城氏45歳。

その金城氏が五嶋龍さんの父親だ。金城氏はソニーからセガがアメリカにつくった子会社の副社長に転じた人だった。では、五嶋龍さんはビジネスマンの家庭に生まれたのかというとそうではない。

Web上に公開されている札幌学院大学人文学部学生加川愛弓さんの卒業論文の記述によれば、金城氏は6歳からバイオリンを始め、桐朋学園大学のバイオリン科に入学、2年在籍後バイオリニストを目指しアメリカのジュリアード音楽院に進んだ。ジュリアード音楽院で彼を生徒として採用したのが五嶋みどりが師事していたドロシー・ディレイだった。金城氏は卒業後ディレイにアシスタントとして採用され、ジュリアードに留学中の日本人女性と結婚した。みどりさんの母親である五嶋節さんは、その女性も金城氏も知っていることから結婚式にも参列した。しかし、節さんと金城氏は次第に好意を抱くようになり、金城氏の結婚生活は破局に向う。

節さんはみどりさんとアメリカに渡る事ですでに夫との仲を壊し離婚している。金城氏は妻に離婚を申し出るが妻は納得せず、離婚をするなら音楽をやめて欲しいとの難条件を付けられた。それでも、離婚の意志は変わらず音楽をやめる決心をし正式に離婚した。音楽界から身を引いた金城氏はエール大学でMBAを取得しソニーに就職したのだった。そこからの人生は、セガの拡大路線とアメリカでぶつかることになって、金城氏はセガの現地法人に転職した。

龍さんは、金城氏の離婚後生まれた。みどりさんはすでに17歳になろうとしているときだ。金城氏の両親も節さんの両親も2人の結婚には反対だったようで、結婚はしないと決めていたようだ。ところが、みどりさんの「いい年して、結婚したら」とのひとことで節さんは結婚を決意したらしい。

節さんが、みどりさんをバイオリニストにしようとしたきっかけは、節さんのバイオリンにみどりさんが興味を持ったためだが、根本的な思いは節さん自身の生い立ちによるらしい。

節さんは大阪生まれで、母は戦後の日本の行方が分らず、女であっても自立できるようにと節さんの姉にはピアノを、節さんにはバイオリンを習わせた。節さんは高校の音楽科に入学し、その卒業演奏会でみなの度肝を抜く迫力ある演奏をしたという。天才の到来に多くの関係者が世界的な演奏家の誕生を節さんに見たという。

そのまま大学に進み、親に内緒でドイツ留学の試験に合格するが反対され、初恋の人とは家があわないと反対され、東京のオーケストラのオーディションには受かっても祖父に反対され、ついにはバイオリンを取り上げられる羽目になる。とにかく結婚させて落ち着かせようとした母親から、結婚すればバイオリンを返すと言われ、お見合い結婚をすることになる。

節さんは、日本の「家制度」からの脱却を心の底から願っていたようで、自分の自由は音楽の世界に没頭することだと思いながらも、妻として主婦として生きなければならない「家」からの脱出を考えていたようだ。みどりさんはそんな節さんのバイオリンに興味を抱く運命にあり、みどりさんが8歳の時に演奏のカセットテープがジュリアード音楽院に届き、ディレイのクラスに入学するためのオーディションに招聘されたのだった。このチャンスに、節さんは人生をかけて渡米した。英語が分らないままの渡米だったが、ディレイの表情からみどりさんを最大限に評価してくれるのがよく分り、アメリカに渡って彼女に師事することを決心した。もちろん夫も実家の家族も大反対だった。その反対で、節さんはすべてを捨てたのだろう。

こうして、世界に天才といわれるバイオリニストを2人育てた節さんだ。人間には独立心から思春期に反抗期があるが、この2人にはそれらしきものがない。反抗するには相手がいる。恐らく、節さんは2人にとってバイオリンの人生そのもの、いや自分の人生そのもの、自分自身そのもので、反抗する相手ではなかったのだ。

みどりさんは、アメリカでの演奏会で二本の弦が切れても最後まで演奏を貫いたことがアメリカの小学生の教科書に記述されている。それを読んだ小学生がみどりさんに憧れやバイオリンについての質問、さらには演奏を聞いた事がないことへの悔やみなどを書いて手紙を送られてくるようで、そういう子たちに演奏を聞かせる活動を財団を設立して積極展開している。世界を舞台に演奏活動もしている。また、大学では学生たちにバイオリンと音楽を教えている。

みどりさんも龍さんも実に活動的だ。どうして、日本ではこういう活動ができないのかは本当に残念だが、できない理由を痛いほど肌で感じていたのが節さんだったのだろう。

金城摩承氏は最近、五嶋摩承氏になった。四人の人生は、恐らく今後も世の中が注目する人生だろうが、最も注目しているのはご本人たち自身に違いない。

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参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2006:「セガ」

サミーの里見社長がセガ会長に就任 [2004年2月18日読売新聞東京朝刊]

セガ会長に里見氏就任[2004年02月18日産経新聞東京朝刊]

[直球曲球]青園雅紘・CSK社長 故大川氏の遺志引き継ぐ [2001年4月5日読売新聞東京朝刊]

バイオリンの五嶋龍君 現代の「神童」の成長ぶり追う フジが連続ドキュメント [1996年7月23日読売新聞東京夕刊]

夏の名物音楽祭に育つ札幌PMF 生命感が躍動する若手 [1995年8月21日読売新聞東京夕刊]

[顔]7歳でデビューしたバイオリニスト 五嶋龍君 [1995年8月20日読売新聞東京朝刊 解説]

参考サイト:

連続ドキュメント 五嶋龍のオデッセイ第10回

Midori Official Web Site

五嶋龍のオフィスから

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