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ベートーベンは何人か。

岸田 徹 【岸コラ】
2006年6月30日(金)

ベートーベンはボンで生まれたドイツ人だ。しかし、サッカーのWカップで戦うドイツと同じような国家意識を持っていたかどうかは疑問だ。

音楽史でベートーベンは古典派3大作曲家のうちの一人。ハイドン、モーツアルトとベートーベンの三人がその大作曲家だが、ハイドンとモーツアルトはオーストリア人。今年は、モーツアルト生誕250年で、各地でモーツアルトのコンサートが花盛り。CD売り場でも必ずモーツアルト・コーナーがある。

モーツアルトが250年なら、ベートーベンは何年かというと236年だ。236年前はちょうどイギリスで産業革命が起きたころ。間もなく、アメリカでは独立戦争が始まろうとしていた。日本は江戸時代で、田沼意次が老中に昇進し、幕府内に予算制度を導入し、大奥の出費を減らしていた。

音楽史では古典派に属すベートーベンだが、世界史での区切りは近世だ。ナポレオンがフランスを支配し、ヨーロッパも支配しようとしたが挫折した時だった。ナポレオンが荒らしたヨーロッパの地をどのように回復するかを話し合った、会議は躍るのウィーン会議。200名を超える各国代表が集まったが、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの4大国がだいたいのところを決めて、他の参加国が同意する形式の会議だった。

途中でナポレオンがエルバ島を脱出して、会議は一時中断したが、ヨーロッパ諸国連合がワーテルローの戦いでナポレオン軍を破り、ナポレオンは100日天下に終わった。

ウィーン会議は再開され、スイスが永世中立を認められたり、ドイツが連邦国家として結成されたりしたが、概して4大国の都合に合わせた結果となった。フランス革命以前の態勢に逆戻りし、民族主義や自由主義などの新しい流れが止められた。

それまでのドイツ人の世界では、中央集権的な国家の存在はなく、300あまりの小さな領土の集まりだった。名目上これを国家として成り立たせていたのが「神聖ローマ帝国」だった。神聖ローマ帝国とはドイツのことだと言える。

その神聖ローマ帝国の最後の局面で実質的に支配を続けていたのがハプスブルク家だ。ナポレオンのヨーロッパ制覇の野望に真っ向から戦ったヨーロッパ諸国の中心はハプスブルク家だった。ウィーンは13世紀からハプスブルク家のものだ。

ハプスブルク家の有名な女帝マリア・テレジアは16人の子供を産むが、そのうちの一人が有名なマリー・アントワネット。ハプスブルク家とブルボン家の結びつき強化のためフランスの王妃となった。フランス革命で王政が廃止されると、彼女は夫のルイ16世とともに断頭台で首をはねられた。

マリー・アントワネットはマリア・テレジアの末娘だったが、長男はヨーゼフ2世。母の監視が厳しく、なかなか一人でオーストリアの統治を任されなかったが、マリア・テレジアの死後は統治者となって、徹底的な教会と国家の改革に取組んだ。プロテスタントとギリシャ正教の信教の自由を認めたり、ユダヤ人に対する差別法を撤廃したり、検閲をほとんどなくしたりと改革に熱心だったが、現実にそぐわず、ありがたがられる改革にはならないまま世を去った。

このヨーゼフ2世の死に「皇帝ヨーゼフ2世の死をいたむカンタータ」を書いたのがベートーベンだった。ベートーベンが二十歳のころの作品で、これが大評判。天才の評価を得ることになった。ベートーベンの父親も音楽家で宮廷楽団の歌手をしていたが、アルコール依存症で生活は苦しかった。生活を支えるために、ベートーベンも宮廷楽師となったが、父親の時代よりは、音楽が一般化し譜面が売れるようになっていたので、楽才で生計を営む環境は整い始めていた。

モーツアルトに音楽を習ったらどうかという話が舞い込んできたが、モーツアルトの死でご破算になり、ハイドンに弟子入りした。

ベートーベンの音楽活動はこうしてウィーンが中心となるが、恐らく国をまたいだという意識はなかったのではないか。当時のドイツもオーストリアもハプスブルク家が統治していた訳だし。

ベートーベンの名声はどんどん上がるが、それと同時にどんどん耳も聞こえなくなり、人付き合いが悪くなっていく。感情の起伏が激しく、しょっちゅう怒鳴っていたと言われるが、同時に常に恋をしていたとも言われている。恋が実らなかったのは、不倫が多かったからだ。

耳が聞こえなくなるばかりか、腹痛にも悩まされたベートーベンだったが、その音楽は56年間の生涯を通じて愛され、晩年の病床には見舞いの手紙が山のように届いたという。肝硬変で死んだとされるベートーベンの遺髪は会葬者によって切られ、デスマスクはほとんど毛がない状態だったという。葬送の行列は数万の市民が見送った。

数年前、その遺髪がロンドンのオークションに出され、ベートーベンの熱烈な愛好家だったアメリカ人外科医が落札した。その愛好家が、アメリカ健康研究所に遺髪の分析を依頼した。その結果、ベートーベンは鉛中毒にかかっていたというのだ。肝硬変で死んだとされていたが、どうも鉛中毒で死んだ可能性の方が高いという結果だった。

鉛中毒になると、激しい気分の変化に陥りやすく腹痛が続くという。また、聴覚障害も起きやすいのではないかと疑われている。なんで、鉛が身体に入ったのかは明らかではないが、ベートーベンが通った温泉地の鉱泉に含まれていたのではないかとか、当時ドナウ川沿いにどんどん建てられた鉛工場がベートーベンの好物だった川魚に鉛汚染を引き起こしたのではないかとか推測されている。

ベートーベンの死後(1827年)、ヨーロッパでは48年革命と呼ばれる革命がパリの二月革命を皮切りに民衆の手によって行なわれた。それは、必ずしも民衆の勝利にはならなかったが、労働者の運動や社会主義運動が始めてひとつの歴史的な運動として登場した。

アジアではアヘン戦争が起き(1840年)、日本では天保の改革が始まるが、幕府体制の崩壊へつながっていく。

音楽も市民社会に浸透し、ショパンの子犬のワルツ(1846〜47年)が世に出てくる。

このコラムに対する【サカスト】の評論はさらに面白い。

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参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2006:「ベートーベン」「ハプスブルク家」「マリア・テレジア」「ドイツ」「オーストリア」「ショパン」

ベートーベン、頭骨でも鉛中毒確認 [2005年11月23日読売新聞東京朝刊]

「ベートーベンは鉛中毒」 通常値の100倍、遺髪から 梅毒死亡説の見直しも [2000年10月18日読売新聞東京夕刊]

「楽聖」好物に殺された!?/イギリス 1999年2月16日読売新聞東京朝刊]

「ウィーン」池内紀著 [1989年10月23日読売新聞東京朝刊]

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