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岸田 徹 【岸コラ】 |
その瞬間、ひな壇の宮沢首相は口をへの字に結び、立ち上がって深々と腰を折った。255票対220票。内閣不信任案採決の予想以上の大差に、衆院本会議場はどよめきと歓声に包まれた。(1993年6月19日付読売新聞朝刊)
この瞬間から、小沢一郎の二大政党制を目指す活動が具体化した。現在63歳の小沢さんはこの時51歳。選挙制度改革ができなかった当時の宮沢首相に羽田氏と小沢さんは自民党内で造反し、野党が突きつけた宮沢内閣の不信任案に賛成したのだった。
これで、自民党は分裂し、羽田氏と小沢さんは旧竹下派の経世会メンバーと新生党を立ち上げ、羽田氏が党首で小沢さんが代表幹事になった。また、自民党若手の1、2年生の議員が中心になって「新党さきがけ」を旗揚げした。そこには後の民主党代表になる鳩山さんや菅さんが参加した。新党ブームの到来で、細川さんの日本新党が人気を博した。
宮沢内閣の不信任で解散した衆議院は、新党効果で自民党の議席を減らした。前回の選挙に比べ自民党は275から223に議席を落とした。また、新党効果は、最大野党だった社会党を直撃し、136から70に落とした。その分を小沢さんの新生党が55、日本新党が35、さきがけが13議席を獲得。
この時、小泉さんは宮沢内閣で郵政大臣だった。小沢さんと同じく51歳。小沢さんが党を分裂させる動きをしたことには批判的だったものの、政治改革に消極的な宮沢さんに対しても批判的で、選挙後も進退をはっきりさせない宮沢首相に対し、郵政相を辞任した。
その辞任劇から間をおかずに、日本の歴史にひとつの終止符が打たれた。自民党一党独裁政治の終焉だった。小沢さんは人気があった日本新党の細川護煕氏を首班として非自民の連立内閣を成立させたのだ。
細川内閣は、その秋に小選挙区比例代表並立制導入を軸とする政治改革関連四法案を提出し、連立与党と自民党の多くの賛成多数で成立させた。小選挙区制に反対だった小泉さんは、この時棄権した。
連立与党は細川さんが唐突に国民福祉税導入を発表して非難を浴び、総辞職した。代わった羽田内閣は、消費税問題でさきがけと社会党が離脱したことで少数与党に転落し、羽田内閣は2ヶ月で総辞職に追い込まれた。すると今度は、連立を離脱した社会党がキャスティングボートを握り、自民党とさきがけとともに連立与党を形成し、社会党の党首だった村山さんは国会で首班指名を受けた。
その瞬間自民党は、社会党の党首を首相にすることで与党に返り咲いた。以降、自民党は単独で政権を取れない状況が続いている。
小沢さんは、この数合わせの勢力に真っ向から挑んだ。新生党を日本新党と民社党、公明党と一緒にして新進党を作ったのだ。当初、党首は元自民党首相の海部さんで幹事長が小沢さんだったが、一年後小沢さんが党首になった(1995年)。活力ある福祉社会を目指し、世界平和に積極的に参画する「たゆまざる改革」と「責任ある政治」がスローガンだった。
選挙で新進党は自民党に次ぐ第2党の立場を築き上げる実績を作っていくが、新党ブームに有権者が嫌気を感じてきて、最初の衆議院選挙で思うように議席を伸ばせなくなった。そのあたりから、反小沢勢力が顔を出してきて、羽田さんが離脱し太陽党を作った。
これがきっかけになって、小沢さんの新進党は分裂し、旧公明党の「新党平和」や「黎明クラブ」、旧民社党の「新党友愛」、「国民の声」、「改革クラブ」に分かれていった。小沢さんも「自由党」を結成し、新進党はなくなってしまった。
それからしばらく、新党の離合集散が続き、「国民の声」は「太陽党」と細川さんがいる「フロムファイブ」と一緒になり「民政党」を結成。新党さきがけから「民主党」になった旧民主党は、労組が母体の「民主改革連合」、「民政党」、それに新進党から分裂した旧民主党系の「新党友愛」と一緒に新「民主党」を結成した。代表は菅直人、幹事長は羽田孜だった(1998年4月)。この時の民主党の政策は、「中央から地方へ」と「規制緩和」、「経済改革」、「友愛の国際関係確立」だった。
この民主党が、「マニフェスト選挙」で戦い、40議席も伸ばす結果を生んだ。自民党237に対し民主党177だった(2003年11月)。この躍進劇には、選挙前の9月に菅さんの民主党が小沢さんの自由党を合併した効果が大きく働いた。
その後菅さんは、憲法改正にも意欲を見せ、日本の独自改革路線を打ち出していった。隆盛のその勢いに水を差したのが年金未納問題で、菅さんは代表を辞任した。
その後行なわれた岡田民主党の参議院選挙は、得票数と議席数の両方とも自民党を上回るもので、いよいよ二大政党による政権交代が起こるかという期待が国民の間に沸き起こった。
ところが、郵政民営化で自民党内から足をすくわれそうになった小泉さんが、郵政民営化法案が衆議院で否決されると衆議院を解散し総選挙に打って出た。反対勢力にズバリ切り込む小泉さんの姿勢に、改革を望む国民の目が釘付になり、民主党は177議席を113議席に減らしてしまい大敗を帰した。岡田さんはその責任を取って辞任。菅さんは、前原さんと代表を争って選挙に臨んだが、2票の差で負けた。
偽メール問題で前原さんは辞任し、いよいよ出てきたのが菅さんと票を争う小沢さんだ。
小泉自民党は、前回の郵政解散の総選挙で圧倒的な強さを見せたので、ずっと改革をやって支持されていたかの印象があるが、そんなことは全くない。あの郵政解散の前は、自民党が小泉改革で分裂寸前で、国民はそんな自民党よりは新しい民主党に期待を寄せていたのだ。
改革に強い意志を秘めて自民党を離脱し、二大政党制で日本をぶれない政治体制にしようとしたのは、小沢さんの方が小泉さんよりずっと歴史が長い。
小泉さんが反対した小選挙区制度は、郵政解散後の小泉自民党に大勝利をもたらした。一方小選挙区制度に賛成した小沢さんの民主党は大敗し、同時に小泉さんの自民党内の反対勢力をも破ったのだった。
二大政党とは、「自由に競争をし経済を活性化させる勢力」と「平等に誰でもが社会に参画できる機会を作る勢力」のぶつかり合いを意味する。小泉さんの自由主義的政治は、自由に競争した結果格差社会を生み出した。その格差は社会の歪を招く。それを阻止するのが民主的な考えの政治だ。考え方からすれば菅さんの考え方だ。
小泉さんと菅さんは対極的な考え方で、どちらの方向も日本にとっては重要だ。ただ、ここに来て格差社会の歪は無視できない状況だ。振り子をもう一度戻すには、小泉さんの次を安倍さんや福田さんにするよりは、菅さんにした方が結果が早く出る。しかし、菅さんはすでに民主党の代表を2回行なっていながら、政権交代が図れなかった事実がある。
民主党は長いこと鳩山さんの財政力に菅さんの理論武装で生き続けて来たと言われている。これに小沢さんの豪腕が加われば、立派に自民党と対峙できる。なにも改革は小泉さんの十八番ではない。むしろ、小泉さんが言い続けていることは、小沢さんや菅さんがその前から言っていた事だ。小沢さんと菅さんが協力して民主党を運営すれば、行財政改革はもっと実りあるものになるのではないか。
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参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2006:「民主党」「新生党」「新進党」「小沢一郎」「菅直人」「羽田孜」
自民党羽田・小沢派“離党カード”どう切る? 「改革」の行方次第とは言うが… [1993年5月8日読売新聞東京朝刊]
政治改革で「宮沢首相に協力」表明/小沢・自民党元幹事長 [1993年6月4日読売新聞東京朝刊]
自民党が政治改革成立断念 野党、宮沢内閣不信任案で一致 18日提出の構え [1993年6月15日読売新聞東京夕刊]
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[政界メモ]「宮沢首相をいじめないで」 [1993年7月21日読売新聞東京朝刊]
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【正論】秩父小野田会長・諸井虔 自由と平等のベストミックスを [1994年11月18日 東京朝刊]
参考サイト:
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