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平和相互銀行は、潰れたのか、潰されたのか。

岸田 徹 【岸コラ】
2006年1月13日(金)

今年の秋で、平和相互銀行が住友銀行に吸収合併されてからちょうど20年ということになる。平和相互銀行のことを今では知らない人もずいぶんいる。首都圏に100店舗を構え、夜7時まで窓口を開けて営業していた銀行だった。サラリーマンには「給与振込専門銀行」というキャッチフレーズでずいぶん親しまれていた。

サラリーマンなどの個人世帯を中心に1兆円の預金を集めたが、貸し出しは個人のお客さんのところへは行かず、創業者の小宮山英蔵氏がつくった関係会社に融資された。有名な会社では今でも世界的な「三井住友VISA太平洋マスターズ」を開催するゴルフ場運営会社の太平洋クラブがある。しかし、それ以外は名だたる企業はない。ところが、その関連会社の数は多く、銀行の本店の所在地だった新橋では、石を投げれば平和相互の関係会社にあたると言われたほどだ。

多くのお金がその関連会社に融資され、お客より預った預金量の半分を占める約5千億円のお金が返せない状態だと言われた。そんな状態の時に、太平洋クラブのゴルフ会員権が償還期限を迎えることになり、会員権を買った会員から預託金の返還を求められたら、返せないだろうという信用不安が広がり、平和相互銀行の預金がその不安にあおられてどんどん引き出され、ついに資金繰りが付かなくなって、住友銀行と合併することになった。

表面的にはそんなことで庶民に親しまれた銀行は潰れていったのだが、物事にはなんにでも裏がある。この合併には政界を巻き込んだ重大な裏があったとされている。

平和相互銀行が危ないという噂は、合併の2、3年前から大蔵省の検査が入るたびに言われていた。実際に、2重、3重帳簿の存在を指摘され、銀行としては最も不名誉な「決算承認銀行」となっていた。経営上の判断はすべて大蔵省の承認が必要という厳しい措置だ。

このとき、創業者の小宮山英蔵氏はすでに他界し、息子の小宮山英一氏が常務として経営に携わっていた。銀行内部では、この英一氏に付く「創業者一族」と血縁のない社長や監査役が中心となって銀行を運営していこうとする「経営者側」の対立が表面化した。

関連会社の中には創業者一族に支配された会社が少なからずあったので、経営者側はそれらの関連会社に融資金の返還を求めた。しかし、創業者一族はそれに応ぜず、ついには自分たちが持つ平和相互銀行株を川崎財閥の管理会社である川崎定徳の佐藤茂社長に売ってしまった。この株が結局住友銀行にわたることになり、平和相互銀行は住友銀行に吸収されるのだが、その前にある事件が起きた。

金屏風事件といわれるもので、平和相互銀行の経営者側が佐藤茂社長の手に渡った銀行株を買い戻そうとして青山の画商から40億円で三井家に伝わる金屏風を買うのだった。金屏風の価値は1億円程度と言われたが、なんでそれを40億円で購入することになったのか。

画商は政界に顔が利くという触れ込みで、佐藤茂社長から株を取り戻せるのは自分だけだと平和相互銀行の経営者側の実力者だった監査役の伊坂重昭氏に近付いた。伊坂氏は当初取り合わなかったが、佐藤社長から電話があり画商のいう事を聞いてやってくれと言われ、その話を信じるようになる。

そこで、伊坂氏は金屏風の売買契約を画商と結ぶのだが、その際、その代金がどこに回るのかを示すようなメモを画商から見せられたという。そのメモには、竹下3、佐藤15、伊坂1と書かれていた。つまり、時の大蔵大臣だった竹下氏に3億円、株をもっている佐藤社長に15億円、伊坂氏に1億円が裏金として渡るという意味だった。

平和相互銀行は決算承認銀行で、何をするのでも大蔵大臣の許可が必要だった。自主再建を目指す伊坂氏の経営者側は、竹下氏が自主再建に理解を示すかどうかが大変な関心事だった。

そんな中、伊坂氏は竹下氏の金庫番といわれた秘書の青木伊平氏と銀座の料亭で会うことになる。青木氏は平和相銀の実情を克明に記した大学ノートを持っていたといい、伊坂氏が自主再建の方法を説明するとよく理解していたという。これで、伊坂氏は株さえ戻れば竹下氏は自主再建を承認すると確信するようになる。

実は、この前に大蔵省は平和相互銀行に大蔵省OBの田代一正氏を会長に送り込んでいた。田代氏は目付け役であると同時に、大蔵省との連絡役でもあったはずだ。田代会長は、全行員に向けて自主再建するよう頑張ろうと訴えた。

画商を伊坂氏に紹介したのも田代氏だった。このことから伊坂氏は、大蔵省も、さらには竹下大蔵大臣もこの金屏風取引については承知していると確信したに違いない。

ところが、金屏風を購入後もいっこうに株は戻ってこなかった。その直後大蔵省の銀行検査が平和相銀に入り、6ヶ月に渡って検査を続けた。株が戻ってこない状況で、伊坂氏は失脚し、別件の背任容疑で逮捕されることになった。

その後、平和相互銀行は雪崩れるように住友銀行と合併した。

合併は1986年(昭和61年)10月1日だった。その前の7月6日に伊坂氏は特別背任罪で逮捕された。7月22日竹下氏は大蔵大臣から首相の階段を上るべく自民党の幹事長に就任。7月26日伊坂氏起訴。8月12日特捜部がかなりの精度で政界に金が渡ったと調べつくしていた金屏風事件の捜査に上層部から捜査終了命令が出された。そして、合併の10月1日を迎えた。

合併後、自主再建を主張していたはずの大蔵省OBの田代氏は、住友銀行の顧問に就任。

その翌年の1987年11月、竹下氏は総理大臣に。しかし、総理就任後わずか10ヶ月でリクルート事件が発覚し、青木氏は執拗な取調べを東京地検から受ける。1989年4月25日竹下氏は責任をとって総理辞任を発表。翌日すべてを知っているはずの青木氏は自殺。

伊坂氏は、最後まで争ったが逮捕から12年後の1998年、最高裁で上告が棄却され懲役3年6ヶ月の実刑が確定した。すでに71歳になっていた。その1年後体調を崩し八王子医療刑務所に移った。それから刑の執行を停止されるほど病状が悪化。2000年4月10日病院で死亡した。実は伊坂氏はかつて東京地検の特捜部長だった。「カミソリ伊坂」の異名を取るほどの俊敏を振るい、検事総長を争ったと言われたが勇退し、弁護士となって平和相互銀行とかかわった。

創業者一族から平和相互銀行の株を買った佐藤茂氏には、住友銀行系のイトマンファイナンスから融資金が出ていた。

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参考資料:

EXテレビ NNN緊急報道スペシャル(1992年)

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