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戌年将軍綱吉は、変態か天才か

岸田 徹 【岸コラ】
2006年1月9日(月)

戌年の将軍、徳川綱吉(つなよし)が発した「生類憐みの令」は悪政の象徴として語り継がれている。最近の読売新聞も次のように解説している。

「江戸幕府の5代将軍、徳川綱吉が1685年に発令し、犬や鳥類などの殺生を禁じた。江戸市中では犬を殺した庶民が死罪になるなど厳しく運用された。戌(いぬ)年生まれの綱吉が犬を大切にするために制定したとされ、綱吉は皮肉を込めて『犬公方』と呼ばれた。」(2005年5月18日夕刊)

西洋ではこの時期、デカルトなどが啓蒙思想を展開し、合理主義で因習や迷信を打破し、人間性の尊重を主張していた。そんな時に、日本では将軍様が犬を殺したら死刑にするとお触れを出したのだから、悪政だったと考えるのは実に明快なことだ。

ところが、最近の研究では、「生類憐みの令」は実に巧妙な民衆統制の方法だったと見直されている。不明な点はまだ多いようだが、綱吉はむしろあの時代にあって先進的な政治を行なったとする見方が主流になりつつある。

通説では、子供が生まれなかった綱吉に迷信に弱い母の尊敬する僧侶だった隆光が戌年生れの綱吉に犬を愛護するように勧めたとされている。

しかし、生類憐みの令を最初に出したころには、まだ僧侶の隆光が江戸に入っていなかったとする説が有力となり、綱吉自身が信念をもって出したとする説の方が主流なってきている。

では、何のために出したのか。その理由は二つ。ひとつは、百姓一揆の防止。農民は農作物を荒らす野獣を追い払う目的で鉄砲を持っていた。この鉄砲で百姓一揆が起きると収拾がつかない。そこで、生類憐みの令を理由に鉄砲を幕府が農民から取り上げた。

もうひとつは、秀吉の時代から行なわれた隠れキリシタンの摘発だ。生類憐みの令は犬ばかりでなく、広く動物を愛護する法律だ。そこで、牛や馬を食べる者をキリスト教徒として摘発する根拠法としたのだ。

直接的に農民から銃を取り上げる法律や、隠れキリシタンを摘発するような国家保安法を作れば、かえって抵抗が大きくなり、これが元で反乱が起きる可能性がある。そこを、生類憐みの令で表面上はやんわり生命を労われと諭しておいて、実際には農民から銃を取り上げ、隠れキリシタンを摘発した巧妙な法律だった。

綱吉が亡くなると、すぐに生類憐みの令は廃止されたため、悪法がすぐに撤回されたかのように言われているが、実は、牛馬の禁令と鉄砲所持の規制はその後も続いた。綱吉の次の将軍である家宣は、悪政の綱吉とは正反対に、「正徳の治」の政治だともてはやされた。家宣の側近によって綱吉は家宣の引立て役にさせられたのではないかと思ってしまうほどだ。

綱吉の時代には、日本人が誰でも知っている大きな出来事が二つあった。ひとつは忠臣蔵だ。家康が江戸幕府の初代将軍になってから80年ほどたってはいたが、宮廷の存在はまだ大きなものだった。天皇の使いが年賀のために江戸に来ていたが、京に帰るために、綱吉にあいさつに来ることになっていた。

その接待役が浅野。吉良は浅野を指導する役目だった。浅野は「この間の恨みおぼえたるか」と言って吉良に切りかかった。恨みとは、吉良が浅野に意地悪をして礼儀作法をよく教えなかったというもの。そこで、「殿中でござる」となり、浅野は切腹、御家断絶となった。

喧嘩両成敗が当然と、浅野の家臣たちがあだ討ちをし、吉良の首を浅野の墓前にささげたのが忠臣蔵だ。この件で綱吉のことはあまり語られないが、浅野切腹、御家断絶という幕府の裁決には綱吉も相当関与したのではないかと思う。将軍は幕臣を厳しく統率していると宮廷にアピールするためにも、相当な裁決を下したに違いない。

もうひとつは、曽根崎心中だ。大坂の平野屋の手代、徳兵衛が天満屋の遊女お初と恋仲になって、平野屋の主人が勧める妻の姪との縁談を断ったことから、持参金を返せと徳兵衛が迫られ、叶わぬ恋と二人は曽根崎の森へと向かい心中する。

この近松の浄瑠璃で、潰れそうだった大坂竹本座は盛り返すほどだった。初演の前月に実際にあった心中事件を近松が脚色したものだ。

ここにも、綱吉の影響が二つ隠されている気がする。ひとつは、綱吉の厳しい儒学だ。綱吉は幼少のころから儒学を勉強し、将軍になってからも家臣を集めては儒学の講義をしていた。その結果、生類憐みの令も発するようになるのだが、儒教的貞操観が庶民の生活にも植えつけられていた。

そこを打ち破る心中ものは、人々の心を奪ったに違いない。

もうひとつは、綱吉の財政政策だ。大きな天災もあったが、東大寺大仏殿の再建や護国寺などの寺院建設で財政は悪化していた。綱吉は働かない大名をどんどん首にした他、働かない代官を数多く処分した。その結果、将軍の権威は上がったものの、綱吉チルドレンばっかりが回りに集まり、財政再建計画の議論が尽くされなかった。世の中はデフレ傾向で、庶民にとって借金は大変な重荷だった。曽根崎心中に出てくる徳兵衛の借金も大衆の気持を引き付けたのだろう。

歴史を勉強することは実に大切だ。しかし、そこには常に政治的な動きがあるという事を忘れてはいけない。過去を否定することによって、現在を美化したり、過去の為政者を批判することで、現在の批判をかわしたりするからだ。歴史は現在の成功者が都合のいいように解釈する癖がある。

吉良は、意地悪な幕臣として有名だ。浅野からの心付けが少ないのできちんと教育をしなかったと語り継がれているが、その証拠は全くない。吉良家は足利一門の名家で、領地のあった吉良地方には、吉良上野介が築いたという黄金堤(こがねづつみ)が災害を防ぎ、海を干拓した富好新田が富をもたらしている。吉良は民のための殿様として偲ばれているのだ。

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参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2006:「生類憐みの令」「徳川綱吉」「徳川家綱」「徳川家光」「啓蒙思想」「赤穂浪士」「曽根崎心中」

[黛まどかの恋ものがたり]愛の“殉死” 大阪市・上町台地北(寄稿) [2003年12月16日 読売新聞大坂朝刊]

【語る】遠藤證圓氏 「歴史」 正しく見直すことが大切 [1996年08月08日 産経新聞東京夕刊]

【晩年の生きよう】徳川綱吉 大正大学長・林亮勝 [1994年07月17日 産経新聞東京朝刊]

参考サイト:

生類憐みと村の悲劇

生類憐みの令

吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)-不運の吉良家名君-

吉良町

狼退治と生類憐みの令

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