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岸田 徹 【岸コラ】 |
恐らく多くの日本人は、かつて日本軍は中国で相当ひどい虐殺行為をしたという認識を持っているはず。南京大虐殺がどういう経緯でどのぐらいの人が殺され、拷問され、強姦されたかははっきり認識していなくても、もう二度とそういう事があってはならないと思っている。
どうして、日本人がそういう思いに至ったのか。中国や韓国が、小泉さんの靖国参拝や、文科省の教科書検定のたびに日本政府の歴史認識が甘いと抗議するからだと思ってはいないだろうか。それはちょっと違う。靖国参拝は国内でも批判が以前よりあったし、教科書問題に関しては、いつの間にか我々の認識が違う方向に追いやられてしまったのだ。
日本の教科書の記述が違うと言い出したのは中国でも韓国でもない。最初に指摘したのは日本の新聞だった。1983年度版の教科書検定で、満州事変や日中戦争などで日本の侵略性が薄められていると報道したのだ。
実は、前の年に教科書出版会社の政治献金が問題になり、この年の教科書検定には注目が集まっていたのだ。そこで、文部省は厳しく検定を行なったという背景があった。
このときに、日本の新聞報道をもとに中国の新華社が東京特派員電を発信した。文部省が教科書会社に日中戦争の記述を 「侵略 」ではなく 「進出 」に書換えさせたと報じたのだった。日本の新聞報道の「侵略性が薄められた」というのと、文部省が厳しい検定をしたというのが頭の中で一緒になってしまい、新華社の特派員は文部省が 「侵略 」を 「進出 」に書換えさせたと推測し、それを 「事実 」として打電したのだろう。
ところが、実際には、その教科書の記述は検定前も 「進出 」と記述されていて、文部省が書換えを命じたわけではないことがすぐに明らかになった。
しかし、新華社電はすでに中国政府に用いられ、正規の外交ルートを通じ日本政府に抗議をしてきた。韓国も抗日独立運動の 「三・一独立運動」が 「暴動 」と教科書に書かれていることに猛烈に反発したことから教科書問題は政治献金問題から外交問題になってしまった。
日本政府はこのとき問題が大きくなることを懸念し、当時の宮沢喜一官房長官が 「日本政府の責任において教科書の記述を是正する」と発表した。一応これで外交問題には決着がついたのだが、政府が責任をもってという言葉がその後も尾を引き、数年後には憲法問題の記述をめぐって再び中国と韓国が反発することになる。以降、教科書検定はその内容が外国政府を意識しながら行なわれるという異常な状態になってしまった。
侵略戦争がいかに悲惨でやってはならないものかを日本人に最初に認識させたのは教科書問題ではない。それは、東京裁判だった。東京裁判は侵略戦争を計画、実行したA級戦犯に対する罪を問う裁判だった。
裁判の結果、開戦時に現役軍人のまま首相になった東条英機が絞首刑になったのは誰でも知っているが、他の死刑判決についてはすでに忘れられている。この結果は、非常に重要だ。
被告人は東条英機をはじめ28人。うち公判中に3名が死亡・免訴となり、25人が判決を言い渡された。全員が有罪で、陸軍大将の土肥原賢二が満州事変の企画実行の責任で死刑、元首相で外相だった広田弘毅が南京虐殺の外交責任で死刑、陸軍大将の板垣征四郎が満州事変の実行責任で死刑、陸軍大将でビルマ方面軍司令官の木村兵太郎が死刑、陸軍大将の松井石根が南京虐殺の中支那方面軍司令官だったことで死刑、陸軍中将の武藤章が参謀本部作戦課長の時に日中戦争を拡大する計画を立てたことで死刑となった。終身禁固刑は16名、禁固刑は2名だった。死刑は絞首刑で判決後1ヶ月余りで執行された。
死刑を言い渡された7名のうち中国の侵略で責任を取られたのが5人なのだ。しかもそのうちの一人は軍人ではなく外務大臣だった文民だ。日本人にしてみれば、東南アジアへの進出は欧米に占領された国家の解放だったという理解があったはずだ。それを、連合国側は東京裁判の死刑判決を通じ中国への侵略戦争だったと結論付けたのだ。
日本人は、このときはじめて第二次世界大戦は侵略戦争だった 「事実 」を知らされ、惨めな敗戦で二度と他国を侵略することはしないと心に決めたにちがいない。同時にこの裁判で中国に対する侵略については罰せられたとの認識が生まれたと考えられる。
東京裁判で、日本は中国侵略の責任を取った形だ。ところが、その中国というのが戦時中からひとつではなかった事がその後新たな問題を起こすことになる。蒋介石率いる国民政府は、中国に満州国を作った日本の侵略には抵抗せずに、地方で勢力を伸ばしていた毛沢東の共産党に対して攻撃をし続けたのだった。
共産党は、この攻撃に耐えられず本拠地を移したが、モスクワにいた幹部が内戦の停止と抗日戦線の統一を呼びかけた。このとき盧溝橋事件がおき、ようやく中国は国民政府と共産党政府が一緒になって日本軍と闘うことになったのだ。これが日中戦争だ。この戦争で日本軍は南京を占領し、その際に捕虜や市民を虐殺し暴行が行なわれた。これが「南京大虐殺」で、日本は国際的な非難をあびた。アメリカ、イギリス、ソ連は国民政府を支援し、日本は劣勢になった。
この戦争で中国は国際舞台に踊り出た。国際連合ができると中国が常任理事国のひとつになった。その中国とは、アメリカ、イギリス、ソ連が支援した蒋介石率いる国民政府だった。
ところが、戦後国民政府と共産党政府は再び対立が深まり、内戦が始まった。最初はアメリカの支援で国民党政府が優勢だったが、共産党の人民解放軍がしだいに力をつけ北京を占領し、毛沢東は天安門で中華人民共和国の成立を宣言したのだった。蒋介石の国民政府は台湾に追いやられた。
歴史を結果から見れば、中国共産党が中国を統一できたのは、日本を敵にすることで国民政府と共闘ができたからだ。もし、この時期に日本が中国を侵略していなかったら、中国は内戦の泥沼にはまり、ソ連とアメリカが干渉してきてベトナムのような代理戦争が行なわれていたかもしれない。
歴史の浅い中国共産党は、侵略してきた日本を打ち破って国家を導いたとする歴史が非常に大切なことが分かる。南京大虐殺の犠牲者は中国の見解で30万人、日本の調査では十数万人だ。
日本政府も国民もこの大虐殺については数の認識のズレは関係なく、再び起こしてはいけない惨劇だとの認識だ。しかし、これ以上の悲劇だと思われる事件が中国にはある。イギリスが起こしたアヘン戦争だ(1839年)。イギリスが中国に持ち込んだアヘンで侵された中国人は1,500万人だと言われている。現在の東京都の人口(1,200万人)よりはるかに多い人がアヘンに侵され廃人同様になった。イギリスで当時ブームとなったお茶や陶磁器を中国から買うために、インドのアヘンを中国に売りつけたのだ。これを阻止しようとした中国の清朝とイギリスとの間で起きたのがアヘン戦争だ。
中国はアヘン戦争に負け香港をイギリスにとられた。香港は1997年まで中国に返されることはなかった。イギリス政府は中国人民にこの侵略を詫びたかといえば、一言も詫びる事はなく、賠償もしていない。中国政府がイギリス政府の態度を問題にしないのは、アヘン戦争が共産党とはまったく関係がない清朝の出来事だからだ。中国の反日運動は、中国人民の問題というよりは共産党政府の問題だと言える。
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この問題に関する【サカスト】の寄稿:「遠い親戚より近くの他人と言うではありませんか」
参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2005: 「中国 」 「南京大虐殺」 「アヘン戦争」
【「南京」の史実】(1)蒋介石も毛沢東も「虐殺」には触れず [1999年12月06日 産経新聞東京朝刊]
参考サイト:
TORON TALKER イギリスが香港支配を終えて思う「考え方」
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