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日本とトルコを結ぶ100年越しのある事件

岸田 徹 【岸コラ】
2005年1月22日(土)

「イラン上空を航行するすべての航空機はイラク空軍の攻撃対象となる」、イラク政府のスポークスマンが全世界に発した声明は、あと48時間で実行されることになった。この無差別攻撃が始まれば、もうイランから逃げることができなくなる。その時イランにいた日本人は約300人。イラン脱出のために航空会社のカウンターに人が殺到した。

イラン脱出を願う人たちは日本人ばかりではない。航空券を求める人でごった返すカウンターで、次々に欠航が決まる。運行の安全が確認できない。各国の航空会社はギリギリの運行便で自国民を乗せ飛び立っていく。やっとの思いで航空券を手に入れた日本人もいたが、自国民を優先して搭乗させる航空会社の取り扱いに航空券はただの紙切れと化した。

日本政府も対応に追われたが、日本の航空会社はイランへの定期便がなかった。日本航空がチャーター便を飛ばすにはイランとイラクの航行安全の確約を取らなければならない。日本政府はイランの確約を取ったもののイラクからの返事が得られなかった。日本人救援のためにJAL便がテヘランに飛ぶことはなかった。

1985年3月17日のことだった。イラン・イラク戦争の真っ只中、イランの首都テヘランでは、毎晩爆撃が続いた。命の危険を感じる日本人はテヘラン市内のホテルに身を寄せ、日本大使館からの救援情報を待っていた。あと数時間でイラクの無差別攻撃が始まる。日本航空は飛んでこないとの一報にイランにいる日本人は絶望の淵に沈んでいた。

その時、信じられない情報が飛び込んできた。

「トルコ航空が飛んでくる」

3月19日午後8時30分のタイムリミットが迫ってくる中、空襲警報が鳴り止まないテヘランのメヘラバード空港に2機のトルコ航空機が降りてきた。定期便に寄り添うようにもう一機のトルコ航空機が降りてきた。1機目の215人乗りのボーイング727の全座席は搭乗を待つ日本人216人にすべたが与えられ、2機目には1機目に乗り切れなかった日本人と同じく本国からの救援を待っていたトルコ人が乗り込んだ。午後6時、2機のトルコ航空機はイランを飛び立ち、トルコに向った。日本人全員が救出された。

日本航空も飛ばないところに、なぜ遠く離れたトルコの飛行機が日本人を救出するために飛んでくれたのか。

トルコに直接依頼をしたのはふたつのルートだとされている。ひとつは伊藤忠商事のイスタンブール(トルコ)支店長だった森永氏がトルコのオザル首相に依頼したルート。森永氏は駐在16年で、首相とはパジャマで行きかう仲と言われるほど、昼夜を問わずなんでも相談し合っていた。

もうひとつは、イランの野村大使が駐イラントルコ大使のビルセル氏に依頼したルート。二人は同じ日に大使としてイランに着任し、双子の兄弟といわれるほどの親交を深めた仲だった。ビルセル大使は本国に日本人救援を訴えた。

しかし、戦火に救援機を飛ばすのは命がけの仕事。いくら政府がトルコ航空に依頼しても断る理由はいくらでもあったはず。ところが、トルコ航空では、すぐさまミーティングが開かれ、特別機への志願者を募った。これに、辣腕の機長はじめ多数のスタッフが名乗りを上げたのだった。

こうして実現したトルコによる日本人救出劇に、どうしての疑問が日本国内で持ち上がった。一方トルコでは、イランにいたトルコ人は6千人といわれ、救出を望んでいたはずなのだが、救援機が日本人を優先的に乗せた事にはなんの非難も出ていなかった。多くのトルコ人が当り前だと思っていたのだ。6千人のトルコ人は陸路を数日かけて脱出したという。

トルコが日本人を救出した理由は100年前に行なわれた日本人の行為だったと後日駐日トルコ大使が明かした。

当時日本は明治維新の改革が軌道に乗り始めたころ。一方、トルコはオスマン・トルコ帝国が西洋列強に領土を侵される危険を感じていた。両国の頭上には、帝政ロシアの南下政策があり、ともに脅かされていた。

そこで後に陸軍元帥となる小松宮彰仁親王は夫妻でイスタンブールを訪問し、国王のアブドゥル・ハミト二世に会見した。その返礼として、国王はオスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする600人の使節団を日本に送った。

一行は軍艦エルトゥールル号で11ヶ月かけてやってきたのだが、明治天皇と会見後、各地で盛大な歓迎を受け、3ヵ月後に帰国の途につくことになった。

ところが、折からの台風シーズンで、建造後30年たつ老朽船は和歌山県の樫野埼付近の岩場で座礁し、エンジンが蒸気爆発を起こし船体が真っ二つに割れた。

この遭難に50戸、400人の大島村の村民が総出で救援にあたった。しかし、どんどん死体があがる。息がある人たちも身体が冷え切り虫の息だった。そこで村民たちは「死ぬな」と叫びながら、自分たちが裸になってその体温を乗組員に伝えたのだ。生き残ったのは69人。

400人しかいない村で、69人の食料を提供することは大変な事だった。村では漁をしてとれた魚を隣の町で米に換える貧しい生活で、台風で漁ができないのとあわせ、食料はすぐに底をついた。食べさせたくとも自分たちの食料すらなかったのだ。

そこで村人たちは、自分たちの非常食として飼っていた鶏を料理し始め、彼らはこれで命を長らえることができたといわれている。

この遭難の一報は明治天皇に伝わり、天皇は直ちに医者と看護婦を派遣した。生存者は軍艦「比叡」と「金剛」に乗せトルコまで送還した。さらに、日本全国から弔慰金が集められ、トルコの遭難者家族に届けられた。

この話はトルコの小学校の教科書に載ることになる。日本は命をかけてトルコ人を救った国との印象が多くのトルコ人に刻まれ、100年たっても感謝の気持が消えなかったのだ。だから、イラン・イラク戦争で命の危険にさらされた日本人を優先的に救出することにトルコ人は誰も異議を唱えなかった。そればかりか、トルコ航空ではクルーが志願して救出機に乗り込んだのだ。

トルコは世界一親日的な国といわれている。どこの国が一番好きかの世論調査でも日本が必ず1位になるという。

そんな友好関係が、トルコ国籍のクルド人の難民問題を思わぬ方向に向わせた。そして、悲劇的な強制送還へと進んでしまったのだ。いったい、それはどういうことなのか。誰も語らない問題を次回【岸コラ】が探る。

本コラムの英語版 An Incident that Connects Japan and Turkey after One Hundred Years

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この記事は、2013年4月5日に体裁を変更しました。その際、リンクがすでにつながらなくなった先は、リンクを解除しました。

トルコについての【岸コラ】

再び世界の渦に巻き込まれるトルコ(上)

再び世界の渦に巻き込まれるトルコ(下)

参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2005 「トルコ」

【隣人たちから】駐日トルコ共和国大使/ネジャッティ・ウトカン(上) [1995年01月09日 産経新聞東京朝刊]

参考サイト:

絵物語 エルトゥールル号の遭難

地球史探訪:エルトゥールル号事件のこと

エルトゥールル号遭難事件(ウィキペディア)

トルコの時代

ノルマントン号事件

トルコに助けられた日本人(wakwak.com)

95年目の友情 彼等が日本を愛する理由(フジテレビ)

「撃墜予告 テヘラン発 最終フライトに急げ」(NHK)

エルトゥールル号はなぜ日本へ来たのか、動機と経緯(和歌山県立串本古座高校)

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