イスラムのスカーフが見せるフランスの「自由」と日本の「自由」

イスラム教徒の女性がかぶっているスカーフがある。「チャドール」(イラン)、「タハラ」(サウジアラビア)、「ヒジャーブ」(エジプトなど)と呼ばれているものだ。宗教的な意味はあるとしても、イスラムの人たちは男女を問わず肌を露にしない習慣がある。だから、女性はみんなこのスカーフをかぶって生活している。

もしもかぶらなかったらどうなるか。日本で言えば、かなりのへそ出しルックでいるようなもので、ののしられることはないが、まともに相手にはされない。

もし、日本の公立小学校でこのスカーフをかぶってくるイスラムの少女がいたらどうするだろうか。多分、宗教の自由でだれもそれを止めなさいとは言わないだろう。

ところが、そんなことを言う国があるのだ。よっぽど自由のない国かと思えば、「自由」「平等」「博愛」のトリコロールカラーが国旗のフランスでだ。しかもこれが法律で禁止されたのだ。この9月の新学期からフランスでは、公の学校でスカーフをかぶって学校に来てはいけないことになった。「自由」「平等」「博愛」に憧れて移民してきたイスラム教徒の人たちに衝撃を与えたことはもちろん、フランス国内でもいろいろな意見が出て、新学期は間違いなく混乱が予想された。

法律が成立したのは今年の二月。日本の新聞も小さく報道している。ところが、このときはイラク戦争一色でこのニュースもその一環と思えるような書き方。もともと日本の外国のニュースとはアメリカのニュースのことで、他の国がどうしてようとニュースにはならない。ニュースになるのは、天災と大事故だけ。大統領や首相が変わっても株が上がっても下がってもニュースにならない国はいっぱいある。

ところが、思わぬ出来事で、この「スカーフ禁止法」は日本のマスコミにも大きく取り上げらるところだった。しかし、衝撃的なロシアの小学校占拠事件で、このニュースは急速にしぼんでしまった。

なぜ、大ニュースになるところだったかというと、イラクの武装グループがフランス人ジャーナリスト二人を人質にとり、この法律を撤回しろと要求してきたからだ。これをアメリカの高級紙であるニューヨーク・タイムズなどが連日報道した。アメリカで報道されると日本にもニュースとしてやってくるのだ。

どうして、アメリカの高級紙が報道したのか。イラク戦争でイスラム的習慣を排除するニュースがアメリカ人に受け入れられるという側面はあっただろうが、それより大きな隠れた要素があると直感した。

「報道の自由」といえば、その手本はアメリカ以外日本では考えられない。日本のマスコミ人は、アメリカの報道姿勢に憧れる。ところがアメリカのジャーナリストたちが憧れる国は別にあるのだ。それがフランスだ。

どうしてかというと、アメリカの報道は商業主義に走り過ぎて大資本の独占が進み、ほぼ大資本同士の競争になっている。ライバルよりも早くセンセーショナルな報道が評価されている。ニュースを深く読む姿勢は二の次三の次になってしまっているのだ。

そこへいくと、フランスの報道は国家がきっちり保護していると同時に、報道機関は国家から完全に独立している。そのため、ニュースの根源を丁寧に調べ報道する姿勢がいまだに続いているのだ。そのため、国民からの尊敬も厚い。まじめなジャーナリストだったら誰でもが憧れる報道環境だ。

そのフランス人ジャーナリストがイラクの武装勢力に人質となったことで、いっぺんにアメリカのまじめな記者たちの注目が集まり報道されるようになったのだと思う。

そんな注目を集めたフランスの新学期だったが、混乱はなかった。スカーフをかぶって登校してきた女子生徒240人は、170人が校門でスカーフを外し、外さなかった生徒も校長先生との話合いで外したという。

なぜスムーズにいってしまったかの理由は、人質になった二人のジャーナリストが原因だった。「スカーフ禁止法」問題は、すっかり「人質問題」に変身してしまい、世論は「人質解放」の大合唱になってしまったのだ。「スカーフ禁止法」に反対していたイスラムの団体までがバグダッドに赴き、禁止法は反イスラムではないと主張し、人質解放を訴えた。これがいつの間にか「力で物事は解決できない」というテロ反対が「フランスは法治国家だ」という連鎖になり、可決した法律に従う機運が一気に高まった。誰もが予想した新学期の混乱は見ることがなかった。

しかし、疑問はまだ残る。なんでフランスは「スカーフ禁止法」なんて宗教の自由を踏みにじる法律を作ったのか。これで、よく「自由」「平等」「博愛」だなんて言っていられるもんだと思う。それには、深い訳があった。

実は、「スカーフ禁止法」というのは恐らくアメリカのマスコミが勝手に付けた名前で、本当の名前は「(公教育の場で)宗教色の強い服装やシンボルの着用を禁止する法」。

なにもイスラム教徒だけではなく、ユダヤ教徒の男性がかぶるキパも禁止、キリスト教徒の十字架も大きなものは禁止している。公の教育の場ではこれらの宗教的なものを身に付けることを禁止したのだ。

じゃ、なぜ禁止したのかが焦点となる。フランスは自由と平等と博愛の国だ。これはフランス革命の時にフランス人自身が勝ち取り決めたことだ。ところが、その自由と平等を求めて、アラブ人もユダヤ人もどんどんフランスに入ってくる。さらにフランスは国籍の生地主義をとっているので、フランスで生まれた子供は文句なくフランス国籍を与えている【注】

するとアラブ人が増えればアラブ人社会が、ユダヤ人が増えればユダヤ人社会がフランスの中にできる。本来フランスに来たイスラム教徒のアラブ人とユダヤ教徒のユダヤ人は自由で平等のはずなのだが、その社会の自由を放任してしまうと、宗教によってアラブ人とユダヤ人の壁ができてしまい、フランス人としての自由と平等の中で博愛精神を育てることができなくなってしまう。それをフランス人は懸念したのだ。

だから、そうならないために学校では宗教に邪魔されない「自由」を確保し皆平等に博愛精神を養うということにしたのだ。そうしないとフランス人が築いてきた「自由」「平等」「博愛」がなくなってしまう。

つまり、フランスで自由になるには、アラブ人やユダヤ人である前に本当のフランス人になれということなのだ。血で「自由」を獲得したフランス人らしい考えだ。こういうのを見ると、日本の「自由」は「放任」だとつくづく感じる。何も言わない、何もしないは「自由」ではなく、無責任な「放任」だ。

それにつけても、正確には「スカーフ禁止法」じゃないのに、今はイスラムを敵視する報道姿勢が一般的になってしまった。【岸コラ】では何度も書くが、イスラム教徒たちの大多数は弱い者をいたわるおとなしい人たちなのだ。それなのに、わざとイスラムを敵に回すような報道がされている。まるでキリスト教世界とイスラム教世界が戦争をするような雰囲気がどんどん作られている。これは間違った概念だ。両宗教陣営とも互いに敵に回す気は全くないはず。

ところで、フランス人の人質となった二人のジャーナリストだが、昨日解放されたと、これまた小さく載っていた(上の写真は、それを報じる9月5日付け「日経新聞」第5面の記事)。

2004年9月6日(月)

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参考資料:

「イスラームの日常生活」(片倉もとこ著・岩波新書)

産経新聞【緯度経度】「仏の断面映すスカーフ問題」(パリ支局長 山口昌子・2004年2月22日付東京朝刊)

参考サイト:

フランス:スカーフ禁止法施行 緊張の新学期に

French Reporters Moved; 3 Turks Killed

Ban on Head Scarves Takes Effect in France

France Vows to Enforce Scarf Ban Despite Threat

仏「スカーフ禁止法」予定通り施行

仏「スカーフ禁止法」、正式発効