この事実について述べよ

大学の一時間は今までのものの見方がいかに甘かったかを衝撃的に悟らせてくれる授業があった。

報道論の小糸忠吾教授(故人)が、昼休み後の教室に入ってきた。左手には黒い革のカバン、右手にはゴルフボールを二つ持っていた。あいさつが終わるとも終わらないともしないうちに、その二つのゴルフボールを上げて、

「今から、これを皆さんに回しますので、これについての事実を述べよ」と言う。

教室の両端から一つづつゴルフボールを学生に渡し、見たら後ろに回せという。40人ほどの教室は騒然とした。

「先生、事実というのは現実にこれについて何か起こったことを書くんですか」と後にNHKに勤めることになるA君の質問に先生は答えない。

「ノーコメントです。さあ、皆さん見ましたか。では、10分でこれについての事実を述べてください。できるだけ多くの事実を書いてください」

「ええ、10分でぇ」とざわめきの中で、「箇条書きにするんですか」との質問も飛んだが、「ノーコメントです」。学生たちはすぐに原稿用紙に書き込む人と頭を抱える人で二分された。

私は頭を抱え込みながらもゴルフボールが回ってきた時に、その特徴を書き留めたメモを見ながらその形状の事実について書き込んでいった。直系が3センチぐらいの球状で白く、表面には直系3ミリぐらいのくぼみが表面を覆いつくしている。他に事実はないか必死に探した。ボールに番号が書かれていることと製造会社名とも製品名とも思える文字が印刷されているところまで書いて、行き詰った。なんと長い10分だったことか。

「はい、それでは、後ろから前に自分の原稿を渡してください」と先生は全員の原稿を集め目を通し再び学生に返した。そこで、「Kさん、書いた原稿を読んでください」と言われた女性が原稿を読んだ。

「これは、ゴルフボールである。ゴルフボールはラージサイズとスモールサイズがあり、これはスモールの方だ。ラージは公式競技で使用するが、スモールは公式競技では使用が認められていない。ゴルフは18ホールを一競技として戦うスポーツだが、このボールを最初のティショットでドライバーを使って飛ばすと、プロは300ヤード近く飛ばす。アマチュアは200ヤードぐらいだ…」

と、実にすらすらと文が流れ、さらに続いた。

「ゴルフは、イギリス発祥のスポーツといわれているが、アメリカでその人気は高く、日本でも2回にわたってブームが起きたことから、近年ゴルフ人口が増えた。より正確により遠くに飛ばしたいと思う競技者の心理からゴルフボールに対する期待も強く、ボールを製造しているダンロップや新規参入のブリヂストンはしのぎを削る販売合戦を繰り広げている」

読み終わったときには拍手が沸いた。先生は、彼女の作品が最も事実を多く述べていると評価した。彼女は大学のゴルフ部だった。

私は、この時、これがゴルフボールであるという事実も原稿用紙に書けなかった。先生が出した問題は「事実」について述べるだけのことだった。だから、目の前の「事実」をありのままに書けばそれでいいのではないかと考えた。

ところが、現実は全く違った結果だったのだ。教室にいた40人はみな一様にゴルフボールという「事実」の前にいた訳だが、その「事実」はその事実に対する知識と経験の差で全く解釈が違ってくるという現実が目の前に広がった。

事実に基づいた報道がなされているかどうかということに対し日本人は厳しい目を持っている。しかし、それは間違った報道をしていないかということに対してのもので、その事実を読者の側に立ってどれだけ的確に表現し報道しているかということには至っていない。

もしあなたが、「事実」は変な圧力がかからなければ正しく報じられると思い込んでいるとしたら、放っておくと、大変なことになりますよ。

2004年8月11日(水)

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参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2004 「報道の自由」