私は貝になりたい

小さいころ私はやんちゃ坊主だった。広々とした畳の部屋ではどこへ行っても母親の注意を無視して駆け回った。幼稚園ではジャングルジムに登っては上がってこようとする友達に唾をかけた。告げ口されて先生に呼ばれると先生にも唾をかけた。先生は園長先生に泣きついていた。ブランコもこれ以上上にはいけないというほどこいで、順番を待っている友達は怖がっていなくなる。いい気になってひとりでこいでいた。

何でもやったが、できないことが二つあった。親父に逆らうことと、消防署の前を通ることだ。おばあちゃん子だったが、なんで消防署の前では止まってしまうのか。祖母には理解できなかった。尻込みして手を引っ張る祖母を困らせた。「なんで止まるの?」と聞く祖母に「だって、いつ出てくるか分からないじゃないか」と泣いてわめいた。私は当時から制服を着た男たちが集団で行動することに狂気を感じていた。出動時に急いでいることを理由に子供一人ぐらい轢くのはなんでもないことじゃないかと怖かった。

そんな子供が、夜遅くおばあちゃんのひざの上に頭をやって、テレビの始まるのを待っていた。父も母も祖父もいた。二つ下の妹もいたような気がする。夜10時だった。三洋電機の提供だった。途中で何度も眠くなるが、衝撃的なシーンで何度もはっとした。終わったのは11時40分。重苦しい空気の中、一家はなにも言わず床に就いた。外国といえばアメリカしか知らないのにアメリカってひどいと思いながら、戦争は絶対いやだと思った。

フランキー堺主演の「私は貝になりたい」だ。1958年10月31日KRテレビ(現TBS)で放映された。フランキー堺は名ドラマーだった。進駐軍のキャンプでドラムをたたき、そのとき付けられた名前がフランキーだった。ドラムばかりではなく独特の甘い歌唱力も披露し、「セシボン」で紅白歌合戦にも出場した。当時テレビは映画界にとっては大変な脅威で、映画会社がいわゆる五社協定を結び、映画俳優はテレビに出られなかった。

フランキー堺が主演したこのテレビドラマは大変なインパクトを日本中に与えた。彼の役柄もぴったりだったが、それ以上に題材がうならせるのだと思った。

房枝、賢一、さようなら お父さんは二時間ほどしたら遠い遠いとこへ行ってしまいます。もう一度会いたい、もういちど暮らしたい……お父さんは生まれ変わっても人間にはなりたくありません。人間なんていやだ。もし生まれ変わっても牛か馬の方いい。いや、牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。

どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ深い海の底の貝にでも…そうだ貝がいい。貝だったら深い海の底でへばりついていればいいからなんの心配もありません。深い海の底だったら戦争もない、兵隊に取られることも無い。房枝や賢一のことを心配することもない。どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい。(Yahoo!ジオシティーズ、ハリウッドの投稿より)

この台詞でドラマは終わった。涙をどうやって隠そうか必死だった。とにかくこんな無情なことがあっていいのかという気持ちが小さい胸に何度も起きた。

床屋の主人公(フランキー堺)が徴兵されて、戦地でアメリカ軍の飛行機が落ち重症のアメリカ兵二人が捕虜になったのを戦意高揚のためと、縛り付けて銃剣で一気に刺し殺せと上官が命令する。それを躊躇していると罵声が飛んで主人公は泣く泣く突き進む。しかし、思うように刺せず、上官から馬鹿にされる。放置されたアメリカ兵はそのまま死んでいく。

戦争が終わり、主人公はまた床屋に戻り「全くひどいもんだ、戦争は、あんな鬼みたいな上官はどんどん逮捕されて処刑されればいいんだ」と言っていたところに、刑事が来て逮捕される。容疑は捕虜虐待だ。裁判では上官の命令は天皇陛下の命令と言われ、それには背けなかったと弁明するのだが、通訳の訳が通ぜず、絞首刑の判決が下される。

刑務所では、アメリカ兵の捕虜を銃剣で突けと命令した上官にも出くわす。主人公は責め立てるが、最後には上官がすべては自分の責任だと言い、仲直りする。その上官が裁判ですべては自分の命令で行われたことだと主張し部下を助けるように懇願する。

上官には絞首刑が執行された。その後、刑の執行を待つ主人公と同様の境遇の受刑者がちは、上官の弁明が通ってこれからは刑の執行がないらしいとの噂で持ち切りになる。実際それから一年間刑の執行はなかった。

ひとり、二人と刑務所から出て行く受刑者。もうすぐ自分も解放される。そんな期待に沸き立ったころ、主人公は急に呼ばれる。13段の階段を前に心でつぶやく。その台詞が上の言葉だ。

このドラマは、当初橋本忍の作とされた。その後「されどわれらが日々」「人間革命」「日本沈没」「砂の器」「八甲田山」「八つ墓村」などの脚本を書き活躍した。ところが、「私は貝になりたい」の放送翌年に盗作疑惑が持ち上がった。加藤哲太郎が自身の獄中記「遺言」にそっくりだと著作権協会に異議を申し立てたのだ。

その異議以降は、この作品の原作は加藤哲太郎という事になった。「私は貝になりたい」は実話の様相が強くなるが、加藤哲太郎の事かどうかはよく分からない。ただ彼はやはり絞首刑を言い渡されたのでドラマと同様に刑を執行されたと誤解されるが、著作権協会に異議を申し立てている通り刑の執行は免れた。

慶応大学理工学部の故中西正和さんの歴史データベースによれば、加藤さんは横浜の軍事法廷で絞首刑の判決が下った後にマッカーサーが審理のやり直しを命じ、有期刑30年の判決になった。それから10年後に著作権協会に異議を申し立てた。17年後59歳でガンのため亡くなった。戦後50年の朝日新聞の社説によれば、加藤さんは家族の嘆願によりテレビ放送された年に釈放された。

実は、カナダ兵の捕虜で新潟の捕虜収容所で加藤中尉(恐らくその収容所長)に会ったという人がいる。彼は「ゲスト・オブ・ヒロヒト」という新潟俘虜収容所の実態を記した本を出した。日本でも翻訳された。その訳者のあとがきに加藤中尉の供述書の内容が紹介されていて、彼自身が心臓に銃剣を二度刺し込み何人かの部下がそれにならったとある。

それからすれば、加藤哲太郎はフランキー堺が演じた主人公の上官ということになる。テレビでは上官が絞首刑になっているが実際には生き延びた。(テレビでの上官は実行犯ではないという事で死刑を免れているとの記録もあり)

しかし、関係者のいきさつがどうであれ、このドラマの反響はものすごかった。戦争状態の中で上官の命令に背くことができるのか。勝った者が勝手に裁いたことなのではないかと言いたくなるが、主人公を逮捕したのは日本の刑事だ。アメリカ軍は日本人に自分の意思どおりの裁判をさせた。自由と民主主義の名の下に正義があれば個人の意思で捕虜を殺さないことも選べたはずだと責める。

敗戦後絞首刑になるのが分かっていたら、捕虜を殺さなかったのではないか。戦争時の永遠のテーマであることは間違いないが、このテレビドラマが日本人を釘付けにしたのにはどうやら別の理由があったと感じる。主人公一人のドラマではなかったということだ。A級戦犯は東条英機ら7人が絞首刑になったが、BC級裁判では朝鮮人や台湾人を含む900人以上が処刑されたのだ。

戦争から生き延びた日本人にとっては、フランキー堺が演じたごく普通の日常生活から刑事がやってきて連行するというシーンが他人事ではなかったのだ。しかし、戦争経験は語りたくない経験としてる人の方が多い。「私は貝になりたい」は、惨めな戦争体験を語りたくはない日本人の気持ちを題名にしているのではないか。あのドラマの終わった夜、家族は貝になっていた。

2004年6月30日(水)

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この記事は、小さいころの記憶をたどってはいるが、テレビドラマの内容については参考資料を読みながら記憶を繋ぎ合わせ再現した。「私は貝になりたい」は戦後50年で、TBSが所ジョージを主演に再制作した。このことについて書かれたサイトも参考にした。また、記事中に出てくる朝日新聞の戦後50年の社説は、実物を見たのではなく、「チャンネル北国」に投稿された記述に基づいて書いたものだ。


これについての【Sakakibara Street】の記事

参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2004:「放送」「東京放送」

参考サイト:

私は貝になりたい

私は貝になりたいのGoogleキャッシュ

ドラマデータベースのGoogleキャッシュ

拷問と戦争の残虐性

ゲスト オブ ヒロヒト―新潟俘虜収容所1941‐1945

橋本忍

歴史データベースon the Web

フランキー堺