小泉首相は「自民党をぶっ壊す」と言って自民党総裁選挙に出て、橋本竜太郎を破ってまさかの当選を果たした。橋本さんは最大派閥の領袖。派閥政治の自民党で、最大派閥と争って勝てるはずがなかった。
ところが、党員による予備選挙で圧倒的な支持が小泉さんに向けられ、最大派閥の橋本さんは負ける。低迷する日本経済とどんどん膨らむ国債発行。それなのにいらない道路がどんどんできる。自民党は相変わらず派閥争い。数さえあればなんでもできると公明党とも一緒になる。
そんな状況に活を入れたのがまさかの小泉圧勝だった。小泉さんは自民党の解党的出直しを訴え、「改革なくして成長なし」を旗印に構造改革を主張した。あわや終わりかと思った自民党は小泉人気のお陰で参議院選挙で大勝。のりに乗った小泉内閣は「聖域なき構造改革」と改革のトーンを上げる一方、9.11ではアメリカのテロに屈しないという宣言に支持を表明、アメリカ軍へのテロ対策支援活動に協力した。テロ対策特別措置法が成立し自衛隊の艦艇がインド洋に向った。
だれもが行かなかった北朝鮮に電撃的に渡り、金正日と平壌宣言を行い、拉致問題を金総書記に認めさせ、「拉致問題なくして日朝正常化なし」。帰国後、金融界寄りだった柳沢金融担当相を更迭し竹中経済財政担当相に不良債権処理を加速するように指示。持論の郵政民営化では郵政事業庁を廃止し日本郵政公社を誕生させた。石油公団、道路公団など特殊法人の改革にも拍車をかけた。そして、イラク戦争で日米同盟を強調してアメリカを支持。イラク復興支援特別措置法を成立させて自衛隊をイラクに派遣した。
まさに、小泉さんは改革の人だ。と、思わせるが、いやいやどうして、大変疑問だ。【Street】で常に言われている歴史にifはない。でも、もし小泉さんが首相になっていなかったら、この改革はできなかったか。多分、誰でもできた。小泉さんは敷かれたレールを誰よりも早く見つけ、その上で大衆が望んでいることを田中真紀子とともにアピールした。それで敷かれたレールに乗れただけのこと――というのが【岸コラ】の疑いだ。
小泉さんが言う「改革なくして成長なし」は立派なワンフレーズだが、実はこれにはつづきがあった。「改革なくして成長なし。民間にできることは、民間に。地方にできることは、地方に。」というのが小泉さんが最初に言っていたスローガンだ。
このスローガンは小泉さんが作ったものでも、行政改革の流れは小泉さんが作ったものではない。「増税なき財政再建」を公約にした鈴木善幸首相の作った土光さんの第二次臨時行政調査会からの地道な活動が行政改革の道筋を作っていった。今から20年以上前のこと(1981年設置)。
土光さんの改革案は中曽根内閣の下で電電公社はNTTに、専売公社はJTに、国鉄はJRになったのをはじめ、行政手続法が成立しどんどん具体化した。細川内閣では規制緩和が政府の政策課題になり、村山内閣で「規制緩和5カ年計画」が閣議決定された。これでドルの両替がビッグカメラの店頭でもできるようになったり、地ビールができ、お米がスーパーに並び、飛行機の格安チケットが堂々と顔を出したり、ヤマトと佐川が全国を駆け巡ったり、車検が3年になったりした。これが小泉さんの言う規制緩和を前面に出した「民間にできることは民間に」だ。
地方分権は、はやり土光さんの第二臨調のときに提言が相次ぎ、宮沢内閣のときに衆参両議院の超党派で「地方分権の推進に関する決議」というのが行われ、小渕さんが倒れる直前に地方分権一括法が施行された。ちょっと見えにくいが、地方自治は「三割自治」といわれていて、後の7割は中央のためにある。例えば、パスポートは国が発行するものなのに、実際には都庁に行って申請したりしている。こういう地方の仕事は7割国のためじゃなくて、7割ぐらいは自治体のための活動になるようにしようというのが地方分権一括法。
財政的にも、地方独自の税金はそれまで自治大臣の許可が必要だったが、これを事前に協議するだけでOKにした。この流れを先取りしたのが石原都知事の銀行に対する外形標準課税だった。
これらの動きが「地方にできることは地方に」だ。
「民間にできることは民間に」と「地方にできることは地方に」は、小泉さんがやったわけじゃなくて、小泉さんが政権を取ったときにはすでに行われていたものだ。ただ、レールが敷かれる状況を小泉さんはよく見ていたし、恐らく誰よりもレールが敷かれた後自民党がどうなるかを知っていた。
そのレール敷きの総仕上げをしたのは、小泉さんに敗れた橋本竜太郎だった。
小泉さんは、首相になると行革担当大臣を石原都知事の息子である伸晃氏に任じた。改革に意欲がある若い人材ということだったが、そればかりではない。
実は、行政改革の目玉である中央省庁改革関連法案が橋本首相のリーダーシップで成立し(1998年)、その法律に従い各省庁の統廃合がを2001年の1月1日に行われることが決まった。残念ながら橋本さんは行財政改革をやりすぎて銀行の破綻と大幅な円安と経済の混迷をきたした。景気対策を望む国民は、参議院選挙で自民党の議席を減らした。その責任を取って橋本さんは首相を辞任、小渕さんにバトンタッチした。
その後2001年の1月1日が来た。小渕さんは亡くなり、森内閣だった。森さんは省庁再編時に行革大臣のポストを作り橋本さんに就任を要請した。森さんは行革の生みの親だった橋本さんにポストを与えたのだ。それを小泉さんは新米大臣にやらせたわけ。これは橋本さんに対するあてつけで、行政改革は橋本さんのものじゃないというアピールでもあった。
じゃ、橋本さんがやった行政改革っていったいなんだったのか。それが内閣府誕生を物語る首相の権限強化だった。これが日本の運営システムを変えている。
2004年5月19日(水)
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参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2004
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