列車爆発テロで200人以上の死者を出したスペインでは、政府がテロに抗議するデモを呼びかけた。このデモの最前列にエレナ王女がいた。
このエレナ王女が18年前に日本を訪問されたとき、東宮御所でレセプションが行われた。若い王女のためにと宮内庁側は同年代の日本女性を40人ほど招待したという。その一人が小和田雅子さんだった。堂々とご自身のことをお話になる雅子さんはその場で際立っていたという。ドレスアップした女性の中でも雅子さんだけが目立っていた。皇太子はそんな雅子さんに一目ぼれだった。しかし、結婚までにはそれから7年がかかる。
雅子さんは、この年に留学先のハーバード大学を優秀な成績で卒業し、すぐに東京大学の法学部で勉学に打ち込み難関の外交官試験に合格したのだった。エレナ女王歓迎レセプション後、皇太子と雅子さんは何度かお会いになっている。高円宮が雅子さんをお呼びになり、そこへ皇太子を招くという事もあった。
しかし、雅子さんは翌年外務省に入り、その翌年には研修留学のためイギリスのオックスフォード大学に行った。これが官僚キャリア組の道。雅子さんはエリート外交官の道を着実に歩んでいた。
当時は、なかなか皇太子のお妃候補が決まらず、マスコミは報道が過熱していた。イギリスまで追いかけたテレビカメラの前で雅子さんは「自分は(お妃候補に)関係しているとは思いません」と語り候補から離脱した。候補から外れた理由はこればかりではなかった。雅子さんの母方の祖父が水俣病で問題となったチッソの社長を歴任していたことから、宮内庁ではリストから外したい意向があった。
数十人の妃候補が次々に皇太子の前に示されたが、皇太子の気持ちは浮かなかった。報道は加熱するばかり。そこで、宮内庁は新聞協会に報道自粛を申し入れ、協会側も国の大事と受け入れた。
そこで皇太子が宮内庁長官に明かしたのが雅子さんへの変わらぬ思いだった。雅子さんは二年間のイギリス留学後外務省の北米二課で奮闘努力していた。アメリカの大統領はパパ・ブッシュ。日本の総理大臣は宮沢さんだ。日米経済摩擦が激しかった。雅子さんは「半導体摩擦」と「外国人弁護士参入問題」及びアメリカが日本に参入できないと強力に改正を求めていた「独禁法」を担当していた。外務省でも最も働く部署のひとつだ。
雅子さんは、ハーバード大学の学生時代に、日本と日本人が全く理解されていない点を痛切に感じたらしい。さらに、男女の隔たりがなく自分の能力が発揮できる外交官という仕事に本分を感じていたようだ。雅子さんはお父さんが外交官。小さいころはお父さんが当時の在ソ連大使館に赴任した。雅子さんもお父さんとともにモスクワへ行った。当時の中川ソ連大使はそんな幼い雅子さんを鮮明に覚えている。
その後、雅子さんはお父さんの転勤に伴いアメリカに渡り、小学校一年で帰国したが、再び高校二年生のときにアメリカに渡りボストンの高校に転校しハーバード大学の経済学部に入った。そして弱冠22歳で外交官試験を突破し、親子二代で外交官となったのだ。
このことは外務省関係者の間では相当話題になった。こんな素敵な女性がいるという事を宮内庁に伝えたのは、どうもソ連時代の中川大使だったようだ。皇太子も学習院大大学院を卒業後イギリスのオックスフォード大学に留学したが、中川さんはそのときの主席随員だった。恐らく、雅子さんをご両親とともにエレナ王女の歓迎レセプションに呼んだらどうかと進言したのも中川さんだ。
さて、雅子さんへの変わらぬ思いを告白された当時の藤森宮内庁長官は、やはり外務省ルートを活用することになる。雅子さんのお父さんが尊敬する国際協力事業団の柳谷総裁に仲介を求めお2人は5年ぶりに再会した。その後宮内庁の新浜鴨場で会われ皇太子がプロポーズをしたとされているが、雅子さんは悩んだ末お断りされている。そこで皇太子は連夜ラブコールをし続け、最終的に雅子さんは「お受けいたします」となったとされている。
熱い皇太子の思いが雅子さんを妃とされたと言われているが、そればかりではなかったと思う。雅子さんは外交官として働く自分に満足していたし、皇室がいかに不自由な場所かを心得ていた。それを一転YESに導いたのは「皇室外交」という甘い言葉だったと思う。雅子さんは皇太子から連夜のラブコールを受けるかたわら、外務省や宮内庁関係者から外交官への熱い思いを皇室外交を通じ生かしたらどうかと説得されたに違いない。外務省サイドの雅子妃誕生に対する賞賛や期待を表明する声は大きかった。
ところが、結婚後皇太子ご夫妻が外国を訪問されたのは、中東3回、ベルギー1回、豪州1回の合計5回だけだ。皇太子はこの他お一人でイギリスとオランダをご訪問なさったが、雅子さまは愛子さまのご出産のために同行されなかった。
一方、現在の天皇が皇太子時代に外国を訪問されたのは、結婚後27年で21回ある。10年の平均に直すと7.7回だ。皇太子と雅子さまの外国訪問は10年で7回だった。皇室の外国訪問は昭和28年に始まったが、平成に入ってからの外国訪問の数は昭和のものを超えている。確実に「皇室外交」は増えているにもかかわらず、皇太子と雅子さまの訪問回数が少ないのは、不思議だ。
日本の行政改革の中で、総理大臣の地位がどんどん上がっていることがひとつの原因だと思う。官邸主導で事を進めたい現内閣では、外交はひとつの切り札だ。皇室外交でその華を取られたのでは総理の人気に影響する。外交能力が十分備わった皇族であればあるほどその影響は強い。
この官邸の戦略は、外遊を希望する雅子さんに「皇室外交は世継ぎを終えてから」という重圧をつくったのではないか。これが皇太子が先日語った「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動き」だったと思う。雅子さんの見込み違いは、官邸と外務省との縄張り争いの結果ではなかったのか。
皇室外交を積極的に行っていらした高円宮の突然の逝去は皇太子ご夫妻にとっては不運だった。平成14年(2002年)11月に高円宮が亡くなった直後、12月に皇太子ご夫妻はニュージーランドとオーストラリアを国際親善のために訪問する。しかし、それ以降ぱったりないのだ。本来なら外遊が多かった高円宮の分も担っていいはずなのに。高円宮は皇太子ご夫妻のよき理解者だったし、皇室外交の後ろ盾だったに違いない。
皇太子の会見は5月10日。官邸のボスといわれた福田官房長官が突如年金未納で辞任を表明したのは5月7日。皇太子の発言は、この絶妙なタイミングで行われた。
2004年5月12日(水)
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参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2004
産経新聞
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