八幡様かお稲荷さんか大師様。この3つは、いったい神社なのかお寺なのか単なるお飾りなのか。そんなことはどうでもいいと、ご利益を求めて長い順番を待ってお祈りする。これが毎年行事なのだから日本人は間違いなく信仰が篤い。
どうしてこう祈る先がいっぱいあるのか。元はといえば仏教に原因がある。仏教は、キリスト教やイスラム教よりも他宗教に対して心が広い。そこで、地場の信仰と密接に組み合わさることが多い。35歳で悟りを開いた釈迦がインドで興した仏教は、チベットに渡ればボン教と融合してチベット仏教が生まれたし、中国に渡った仏教は儒教の「孝」の教えを強調するようになった。
これが日本に入ると、用明天皇が「仏法を信じ、神道をとうとぶ」というように自然な形で神仏が融合していった。その後、それは政治に利用された。
「弘法筆を択ばず」で有名な弘法大師の空海が大学の仏教を学んだだけでは不満で、室戸岬で苦行を積んでいた。一方、僧侶が力を持ちすぎ政治に口出しするため政界腐敗を嫌った藤原氏は、無駄な官を省く構造改革に着手した。これに同調する桓武天皇は、抵抗勢力となってしまった奈良の「仏教族」と絶縁するために首都移転を計画し実行した。これが平安京だ。
政治に口出し信徒から金を巻き上げる「仏教族」を変えてほしいと、桓武天皇はやはりそんな「仏教族」に批判的だった空海を支援し遣唐使の一行に加わえた。空海は中国の長安でインド人仏教僧からサンスクリットを学び、師と仰いだ恵果から密教を学んで帰国した。
帰国後、待っていたのは仏教改革を望んでいた嵯峨天皇で、高野山に真言宗の総本山として金剛峰寺(こんごうぶじ)をひらくことを許可した。ところがこれが壮大な難事業。この大事業を守るために最初に丹生明神という神社が建てられた。仏様を守る神様だ。
その後、嵯峨天皇と意気投合した空海は平安京を守るために入り口近くに建てられた東寺を与えられた。このお寺を守る神社が伏見稲荷大社で、全国3万あるといわれる稲荷神社の総本社。どうも、私にはこうやってお寺の横に神社を建てて仏教をけん制していたような気もする。
ちなみに、お稲荷さんとキツネは切っても切れないが、この関係も仏教と神道から来た。当時から神様は仏様に姿を変えて世の人を救いにきたとの説が流行していた。そこで、各地のお寺の仏像を、密教でいうダキニテンという鬼神に見立てた。この精霊は通力自在で人の死を六ヶ月前に知り、その心臓をとって食うといわれている。この鬼神がキツネに乗っている姿が重なって、キツネは稲荷神の使いだという信仰が生まれた。それで、キツネはお稲荷さんの象徴だと考えるようになった。そんな訳で、お稲荷さんには、キツネの好物だとされる油揚げが供えられたりする。
弘法大師の空海は、奈良で無駄な研究ばかりで口しか動かない仏教僧が大嫌いで、実践で人を幸せにする仏教を説いた。仏教だけでなく儒教も教え、日本で最初の一般庶民教育を行った人だ。
新しい仏教の確立に全霊を尽くし62歳で亡くなった空海は人気があって、彼が遍歴した各地では弘法大師を信仰するのが流行った。四国の八十八ヵ所の巡礼は空海ゆかりの寺をめぐるもので、大師信仰のひとつだ。
ところは変わるが、無実の罪で追われ、川崎に住み着いたひとりの42歳の武士が、魚をとって貧しい暮らしをしていた。このひどい人生のめぐり合わせに厄除け祈願を続けていた。そこにひとりの高僧が夢枕に現れ、自分はかつて中国に渡り自分の像を彫っていたが、海に落としてしまった。これを拾い供養し、功徳を皆に及ぼせば、あなたの災厄は福徳となると告げた。まさに夢枕に現れたのは弘法大師。
その武士は急いで海に出て網を投げると一体の木像が引きあがられた。それを大事に供養していると、高野山の偉い僧が立ち寄り、話を聞いて感激し、一緒に寺を建てたのが川崎大師だ。この武士の名前を取って平間寺という。一説によれば、この木像は空海が42歳のときに自分の厄除として刻んだもので、多摩川の洪水で流失したともいう。
厄除の考えは仏教にはない。厄をもたらす神がいると恐れられていた風習だ。
いつごろからこういう神仏が融合されたかは、弘法大師の前、奈良時代に大きな動きがあった。
大分県には八幡神(やはたのかみ)への信仰があった。何の神様かは諸説があって不明だ。奈良時代に聖武天皇が中国に対して東の大寺と意気込んで建てた東大寺の大仏造立事業が難航した。なんでこんなものを造るのかと悪評が立ち上がったのを、八幡神が「神々を率いて成功させる」とお告げを出して悪評を一掃した。
このために、一地方の神だった八幡神は都に迎えられ、最高位の神様になった。こうやって八幡様はお寺を守った。現在でも4万以上の八幡様がある。
このような神仏の融合(神仏習合)は明治政府の神仏分離政策が行われるまで日本では当たり前のように続いた。
明治政府の神仏分離政策は、神社から仏教的な要素を取り除き、全国の神社を国家の支配下において、国家神道政策をするためだった。ところが、これが江戸時代の檀家制度で坊主丸儲けをしていた仏教に対する反発の強さにあおられ、あっという間に日本全国に広まって半数近くの寺院が破壊されることになった。
2004年1月5日
参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2003
参考サイト: