タイタニック号の日本人

タイタニック号に乗船していた唯一の日本人は、細野正文さん。映画「タイタニック」が上映されたとき、プログラムにYMOの細野晴臣さんのお祖父さんにあたる方だという記事が載って、一躍有名になった。

細野正文さんは新潟県上越市の出身で高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し鉄道院に就職したエリート官僚だった。第一回鉄道院在外研究員として、ロシアとイギリスの鉄道施設の視察を終えて、ニューヨーク経由で日本に帰国するためタイタニック号に乗り合わせた。41歳だった。

タイタニック号は1911年5月に進水式をし、1912年4月2日に試運転をしたばかりで4月10日サウサンプトンを出航し、ニューヨークに向かった。快晴に恵まれ波もない処女航海にふさわしい快適な航海の始まりだった。

当時ヨーロッパの列強は植民地経営の花盛りしころで、同時にアメリカではゴールドラッシュ。ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸との北大西洋横断航路はビジネスマンと移民の往来でまさにドル箱路線だった。そこに、イギリスとドイツの汽船会社が大型客船を投入し、速さと豪華さで火花を散らしていた。

タイタニック号のホワイトスター汽船会社(イギリス)は、当時経営危機が叫ばれ、1902年からアメリカのモーガン財閥の支配下になっていた。ライバル会社のキュナード汽船は海軍の造船技術を取得しスピードの面で大きくホワイトスターを引き離していた。そこで、ホワイトスターは豪華客船を看板に巻返しを図ろうとしていた。

映画のシーンで強調されたタイタニック号の豪華な船内はライバル競争の現われで、その上スピード面でもライバルの鼻を明かそうとしていた。

4月14日、朝から数度にわたって付近を航行する船から氷山情報が入っていたが、夜になっても船長が速度を落とそうとしなかったのは、豪華さばかりでなくスピードでも世界の注目を集め、ライバルに後れを取った会社の挽回を図ろうとしたためだった。そして、夜11時40分、氷山に進む船を左に舵を取り正面衝突を回避したものの、右舷船首部分に数十メートルの亀裂を作り浸水が始まった。2時間40分後船は真っ二つに割れ氷点下の海中に沈んだ。

この時、乗客だった細野正文さんは2等客室にいた。乗務員のノックの音で起きた正文さんは大変なことになっていると気付いた。とっさに思ったことは、「日本人の恥にはなるまい」ということと「もう豊(妻)と子供には会えないという覚悟」と同時に「何とか助かれたら」という相反する心境だった。

2等客室の乗客は全部で285名。1等は324名。3等は708名だった。乗客数は1,317。2等客室の乗客の中には、最後まで演奏を続けた8名のミュージシャンがいた。その分を引くと、1,309名。

乗員は、甲板員66名、機関員326名、客室乗務員430名、レストラン従業員70名、ミュージシャン8名、郵便職員5名の計905名。

これに対し、救命ボートの定員は最大1,178名。乗客だけでも全員が乗れない。救命ボートは船の左右に並んでいた。進行方向左側は婦人子供を優先して乗せることが厳格に守られ、どういう訳か定員いっぱいには乗せない。一方右側は比較的男性も乗るのを許していて、定員いっぱいのボートもあった。

正文さんは、観念したように左側の救命ボート前にいた。10番ボートが下ろされ65名定員のはずのところに婦人と子供が28人乗り終わると、「もう2人乗れる」との声がした。そこで一人の男が飛び乗った。まわりを見ると他にはいない。正文さんはとっさに生きることを選び船から飛び降りた。この救命ボートには男が3人いた。正文さんと、前に飛び乗ったトルコ人のネシュマンさん(25歳)、それともう一人はフランス人のアンドレ君、1歳だった。

ネシュマンさんは3等客室の人で、トルコ人は彼を含め6人が3等客室に乗っていた。全員労働者でいわば出稼ぎ労働者。正文さんはネシュマンさんと一緒にオールをこいだ。

10号ボートはタイタニック号のライバル会社キュナード汽船のカルパシア号によって4月18日救助された。そこで、正文さんを待ち構えていたのは意外な中傷だった。

実は、正文さんが乗り込んだ反対側に、13号ボートがあり、そこにイギリス人教師のローレンス・ビーズリーさん(当時34歳)が乗り込んだときに、無理矢理乗り込んできた男がいた。中国人のチョンさんだった。チョンさんは船乗りで仲間8人とやはり出稼ぎに行くところだった。

ビーズリーさんは、これを「無理矢理救命ボートに乗り込んできたいやな日本人がいた」と証言し、これが正文さんだということになってしまった。

日本に帰った正文さんは、日本男児なら死んでくるべきだったと新聞で批判され、同僚からも中傷を受け鉄道院を辞めた。道徳の教科書には非道徳的な日本人として取り上げられた。その後正文さんはこの事件について一切語らず、1939年69歳で亡くなった。中央大学の教授を務める次男の日出男さんが遺品を整理していたところ、妻に宛てた遺書の手紙がみつかった。その遺書の書き損じには沈没から救助されるまでの様子が克明に記されていた。それによれば、婦女子を押しのけボートに乗り込んだものではないことは一目瞭然で、生還はまさに偶然であることが分かった。

日出男さんは1942年「巨船タイタニック号の遭難日記」という論文を書き、タイタニック号が世間の話題になるたびに父親の手記を公表してきた。それを正文さんの孫の百合子さんが映画タイタニックの公開前の盛り上がり時(1997年)に再び発表したところ、アメリカのタイタニック号研究財団の目に触れ、検証の結果、手記通りであることが証明された。正文さんの汚名挽回までに85年の歳月がかかった。このことは、アメリカの代表的な週刊誌Timeでも報道された。

1等船客だけが救助されたようになっているが男はそうでもない。婦女子は9割以上が救助されたが、男は3割。2等客室は婦女子が8割、男は1割。3等は婦女子が5割弱、男が1割強だ。乗務員の4分の3は最後まで持ち場を離れず犠牲になった。

男は身を引いたことになる。これを当時のメディアはアングロサクソンの勇敢さと称え、日本人を卑怯者にする事でそのアングロサクソン至上主義をさらに上げようとした。日本でも、明治から大正に切り替わる時代で大国日本を世界に表明しようとしていた。本人から事情を聞けば分かることなのに、日本男児として許せないという評価になったのは、列強の仲間入りをしたかったためだ。


参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2003

産経新聞

参考サイト:

Encyclopedia Titanica

タイタニックの世界

lab/izumit/myself:Biography

TIMEでみる日本の素顔

タイタニック号に乗った日本人

新潟県出身者の有名人

雑記