目には目を

高校野球が甲子園で始まると、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という格言を思い出す。勝っても負けても一生懸命の球児たちにはぴったりの言葉かもしれない。でも、この格言は嫌いだった。なんか、スポーツをしていないと健全な精神が宿らないみたいで、私のように榊原先生のタクトの下で音楽室にこもってホルンを吹いていた中学生は、健全じゃないと言われているよな気がしていた。

ところが、この格言はそういう意味じゃないと書いた新聞のコラムがあった。勇んで読んだね。なんでも、古代ローマの風刺詩人がスポーツばかりやって勉強しない若者に「健全な肉体には健全な精神も!」と肉体ばかりではダメだと警告した格言だというのだ。それが明治時代に日本に伝わったとき、富国強兵策で、肉体を鍛えろと反対の意味になったというのだ。

ところがまた逆転。その新聞のコラムは意味が違うと書いているホームページを発見した。そのページによれば通常我々が使っている格言の意味も勉強しない青年への警告の意味も解釈がオーバーで間違っていると書いてある。ずっと読んでいくともっともで、原文を忠実に訳したページを読めば、そんな格言も出てこない。

要は、心身ともに健康でありさえすれば、大きなことを願わない方が身のためというような意味。そういう風刺がずらずらと書かれていた。

元の意味と随分違ってしまう格言にぜひ加えたいものがある。「目には目を、歯には歯を」だ。この言葉はバビロニアのハンムラビ法典に出てくる言葉で旧約聖書に出てくるが、イエス・キリストが例えたので有名になった。我々の西洋文化はイエス・キリストの流れを汲んでいるので、これが訳されたときに、いつの間にか目には目をもって償わなければならないというような訳され方をしたものだから、強制的なきつい意味になってしまった。この言葉は身の毛がよだつ感じに取られている。

でも違うのだ。元はと言えば、暴力で目をやられたのなら、せいぜい目をやるぐらい、歯なら歯をやるぐらいにしておきなさいという意味。同じ旧約聖書の流れを汲むイスラム教では、ちゃんとそのように解釈されている。

なのに、こともあろうに、このような教えを守っているイスラム教徒たちは野蛮だと誤解されることがある。彼らは人間の野蛮さをよく知っている。だから、ややもすると、目をやられたのに命までとろうとする場合があることを戒めている教えなのだ。

日本でも闇金業者がお金を返せなくなった人に「おい、ばばぁ、死ね」と言ったりする。日本人は律儀なもんだから、借りた金を返せないと昔は娘を売ったり、今では臓器を売ったりしている。そんなことする必要はない。目には目を。お金が返せなかったら、返せなかっただけの償いをすればいいだけだ。それって、なんで償うの?って、考えるから娘を売っちゃうのだ。担保取っていればそれを差し上げて終わり。質草は流れておしまい。何もなければ言葉だけなんだから、謝まっておしまい。

(2003年8月8日)


参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2003

参考サイト:

「健全な精神は健全な肉体に宿る」とは言わなかったユウェナリス