自分が「大切にしているもの」や「宝物」について、他人に英語で説明するスピーチの原稿を4文以上で書きなさい。ただし、最初の文はThis is に続けて書き始めなさい。
これは、去年行われた全国45万人の小学5年から中学3年の生徒を対象に文部科学省が行った学力テストのうち中学三年生向けの英語の問題だ。
この問題の予想正解率は50%だったが、あにはからんや、現実の正解は26.6%だった。誤った回答の例として、This is a soccer ball. Very nice ball. Very good.などがあげられ、文章になっていないし、文章同士のつながりがないなどの問題が指摘されていた。
児童生徒の学力の低下が著しいらしい。英語は書く能力に著しく低下が見られるという。
何も書くばっかりじゃない。日本人は英語が苦手だ。中学3年間全員が英語の勉強をしているのに、外人が日本に来て道を尋ねても満足に答えられないのを一番驚くのはその外人だ。「日本では3年間義務教育で英語を勉強しているんです」「ええ、3年も?」と驚いた時、「ええ、でもそれから多くの人は高校へ行くから、また3年、合計6年」と言うと、もう驚かない。呆れるだけだ。
文部科学大臣の最高諮問機関である中教審は、今後審議する事項として「グローバル化、情報化等社会の変化に的確に対応する教育の推進」として、高校を卒業したら英語で日常会話ができ、大学を卒業したら英語で仕事ができるようにしたいとし、そのために、教師の国際性を徐々に養い、教師が国際教育協力の経験や異文化体験を生かした授業ができるようにしたいとしている。
冗談じゃない。3年間も中学で英語やってんだから、中学卒業と同時に日常会話はもとより仕事でも使える英語にして当然だ。フィリピン女性なんかは、日本に来て6ヶ月でお客を扱える日本語をマスターして稼いでいる。
こんな役に立たない英語の授業はもう止めて、very nice ballでサッカーでもしていた方が教育費もかからず、生徒たちも楽しいだろう。
文部科学省の一般会計予算は6兆5千億円だが、義務教育のための予算は、ほとんど人件費で3兆円ほどある。教育は人が行うものだから、決して高くはない。でも、英語の教師がいなくなったら、その分予算は減らせる。
日本の高校までの学校では、もう英語の授業はやらない方が本当にいいと思う。その方が、日本人ははるかに英語ができるようになるはずだ。
そもそも、言葉は、言葉だけ勉強してもだめだ。例えば、日本では、始めて会った人とのビジネスシーンでの会話はこんな調子だ。
「始めまして、田中でございます。どうも、本日はわざわざご足労いただきまして恐縮でございます。大変でございましたでしょ」と名刺を交換して会話が始まる。そのうち、打ち解けてくると、
「ところで、田中さん、お国はどちらですか?え、鹿児島?薩摩藩士でらっしゃいますか。さすが男らしい。失礼ですが、昭和何年で?」と年をそれとなく聞く。
「あ、17年ですか。じゃ僕の方がひとつ上だなぁ」となる。これは、不思議な事に若い人も同じで「え、マジ?僕の方が一個上だ。なんと頼りない」とビジネスシーンでも必ず出てきて、そこからやたらと会話が乗ってくるのだ。
日本では、こうやって年齢を知って話す言葉を選ばないと失礼になる事があるため、どうしても年が気になるのだ。ここまでくると、上下関係と地域的な近親感など、人間関係の条件がそろうので、安心して話ができるようになる。
これを英語ができるからといって、そのまま英語に直し「It is first time for us to meet. My name is Tanaka. I am sorry for your effort to come here.」とやったのでは会話にならない。英語では嬉しくなくとも「Glad to see you」、たいした事なくても、「Nice to meet you」と言って始まる。しかも、抑揚が高い。日本語でそんなに高揚しながら言っ たらバカじゃないかと思われるようにするぐらいに話して丁度いい。
そんな英語を日本人の先生が教えたら、これは英語の授業じゃなく芝居かなんかの授業だ。
日本人が日常英会話ができない原因は、このオーバーとも思える表現ができないためだ。次に、ビジネスに英語が使えないのは、お国を聞いた後に年を聞かないと人間関係が不安で始まらないことに代表されるような日本型ビジネスの枠が取れないからだ。
日本人のビジネスの進め方は、独占的にならず、なるべく主張せずに、それでいていつの間にか自分の主張の雰囲気に持込んで、自分の懐に誘い込んでから思うように料理するのがプロいやり方だ。これをやるには、日本語がやりやすい。英語でそれをやろうとしてもなかなかできない。
一方、米国流のビジネスは、相手を緊張からほぐした後、グサッとくるような衝撃的なことを理路整然と述べて、あなたのためにもなるし、私のためにもなるから、一緒に手を組んでやりましょうとやる。これは、はるかに英語の方がやりやすい。
言葉が違うというのは、生き方が違うという事だ。生き方が違うまま言葉だけ違えるというのは、全く通じない言葉になってしまうばかりか、誤解を生む。
日本人が国際社会の仲間入りをしたいというのなら、英語を勉強させる前に、米英式のやり方をするのにやりやすい条件を整える事が必要だ。それには、まず次の3つの差別を学校から取り除く事だ。
(1)年齢による差別、(2)性別による差別、(3)人種による差別だ。
日本人の日本語の会話には、無意識のうちにこの3つがある。英語にはこれがない。気持ちはあっても、言葉には意識しないと現れない。
先生同士の人間関係にこれがあってはいけないし、生徒のクラブ活動の中でこれがあってもいけない。その上で、生活習慣が違う言葉なのだから、英国人や米国人の先生を英語の教師にすべきだ。中教審が言うように、英米式の環境に漬かった日本人教師を育て上げるには、何十年もかかる。そんな無駄遣いはできない。それより本場の教師を明日からでも教団に立たせた方が、はるかに効率的だ。
ところが、今の法律ではこれができない。外人は先生になれないとはなっていないのだが、教員免許を取らないと高校生以下の先生にはなれない。免許を取るためには大学でそれなりの単位を多く取得しないといけないのもネックになるが、最大のネックは高校を卒業していないと免許が取れない事だ。
日本の高校を卒業した外人なんてほとんどいない。つまり実質的に外人には教員免許が取れない仕組みなのだ。英語の教師だけは、別の免許体系にすればいいのだが、日本の役所仕事はそういうのが苦手だ。他との整合性が取れないと言い始めるに決まっている。
だから、私はいっそのこと高校以下では英語は教えない方がいいと思うのだ。浮いた予算で、ノバみたいな駅前留学の学校に助成金をどんどん渡して、優秀な英米人の英語教師をどんどん招いて、若者に英米人の生きるスタイルと英語を教えるのだ。そんな事をすると、国が乗っ取られるっていう役人が必ず現れるが、このまま相手を知らずに国際社会に若者が出て行けば、赤子の手をねじるように外人に上手い事やられる。気が付けば、国の生命線は全部外国に握られるという事態がやってくる。今も既にそんなところがある。
英語は、数学や物理や社会と違って、勉強してマスターしているだけでお金になる唯一の教科だ。数学2級や物理3級があるかどうかは知らないが、そんなもの持っていても金にはならない。英語の場合は、あれば採用の基準に堂々と入ってくる。だから、若者も授業科目になくとも、自然と英語を身に付けたいと思うはずだ。
行財政改革で特区制度なんかやらないで、今すぐ英語の授業を廃止した方がいい。国民の国際化だなんて、政府は余計な事をしなくたって、国際化してるよ。これをリードする国際化にしたいわけだから、民間部門がやるべき事だ。政府が出る幕じゃないね。
2003年5月13日
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「見直すべき英語教育」(藤巻啓森)
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